漂白―色のない世界―
最後に火向の笑顔を見たのはいつだろう。
花瓶の水を仕替えながら、草野は思った。
夏も近づいてきたこの頃、水が生ぬるい。
きゅっと水道の栓を閉めて、新しい花を生ける。
その花瓶を手に抱えると、彼の居る病室へ向かう。
真っ白な廊下。
ナースステーションから声がするだけで、
他に殆ど人の気配はしない。
そんな中をぱたぱたと歩いていく。
病室について、彼を視界に捉える。
真っ白な病室。
ベッドに座って窓の外、それよりもっと遠くを身動きもせず見つめるその背中。
そんな彼も、身に付けている寝巻きは真っ白。
3ヶ月は外に出ていない、その肌の色も血の気が引いて真っ白。
此処は何もかもが真っ白で。
白というその色に、草野は今はもういない、あの姿を思い出さずには居られなかった。
六氷が裁いた、怨念の化身と化した円。
六氷にとってもそれは苦渋の決断だった。
しかし、裁くしか手段が無かったのだ。
彼は取り返しのつかない過ちを犯した。
罪には罰を。
苦しそうな表情で、六氷は魔法律を執行した。
それを受け入れた円。
死に行くその彼の顔は、どこか救われた表情をしていた。
だけれど、火向の心は大きく傷ついた。
仕方が無いのだ。
そう思っていても。
受け入れがたいその現実。
―そして彼は壊れた。
「ヨイチさん。」
草野が声を掛ける。
勿論返事はない。
此処に火向の意識は無いのだ。
それに構わず草野は喋り続けた。
ベッドの脇の台に花瓶を置くと、
今日はこんな事があったとか、他愛もない事を口に出していく。
返事が無いのはしょうがない、それでも草野は喋り続けずには居られなかった。
そうでないと、その痛々しい姿を見ているこちらまで壊れてしまいそうだった。
彼の両腕には真っ白な包帯が巻かれている。
リストカット、OD、色々な自殺行為を繰り返した証。
草野と六氷は、何度も彼がオフィスで血まみれになって倒れているのを見つけた。
もうどうしようもないから。
そう言って精神科に入院させるしかなくなったのだ。
あ、そういえば、と草野はスーパーの袋からさくらんぼを取り出した。
「今日スーパーでさくらんぼを見つけたんですよ。
真っ赤で美味しそうだったから買ってきちゃいました。」
気が向いたら食べてくださいね、と言って、
小皿に幾つか移し変えると、花瓶の側に置いた。
「そうだ、今日ちょっとムヒョに頼まれ事があって本屋さんへ行かないといけないので、
それが終わったらまた来ますね。」
それじゃあちょっと行ってきます、と言って草野は席を立つと、病室を出て行った。
再び静かになる部屋。
相変わらず、火向の視線は遙か遠くの空を見つめていた。
それから幾許か経った頃。
―ヨイチ。
火向の耳に、懐かしい声が聞こえた気がした。
今まで人形のように動かなかった身体が、弾かれた様に後ろを向いた。
―ヨイチ。
今度ははっきりと聞こえた。
間違いない、あの声は…。
火向はそっとベッドを降りると、声のする方へ歩いて行った。
どこ、どこにいるの。
此処数ヶ月殆ど何も口にしていなかった身体はすっかり痩せ細って、
よろけながら、それでも壁に縋り、その声の元を探した。
真っ白な廊下を歩き、行き着いたのは、屋上。
そこで火向は、あんなにも求め、恋焦がれた姿を見つけた。
白の化身。
円、その姿に間違いはなかった。
逆光でよく顔が見えない。
よろめき、しかし這ってでもその姿に近づく。
「エンチュー…。」
『ヨイチ、お久しぶり。…随分と痩せたね。』
「エンチュー…!寂しかったよ……俺、どうしたらいいかわかんなくて。」
『ああ、僕も寂しかった。でももう良いんだ。今日、君に会えたから。』
「エンチュー…エンチュー…!」
円の身体にしがみ付く。
『ああ…綺麗な肌が台無しだ。』
円が腕の包帯を解く。
そしてその下に隠された無数の傷跡に口付けた。
「お前の側に行きたかったんだ。ずっとずっと。」
『そうか…痛かっただろう?ごめんね、苦しめて。』
でも大丈夫。
もう、これから先は一緒だよ。
円がにこりと笑った。
その笑顔に、火向も満面の笑顔で答えた。
『それじゃあ、行こうか。』
「うん。」
『怖くない?』
「大丈夫…。エンチューと一緒ならどこでも天国だよ。」
屋上の手すりの上に立つ。
『此処から空へ飛び立つんだ。向こうの世界は綺麗な景色が広がっている。
きっと君も気に入るよ。』
さあ、飛び立とう。
円が言った。
火向は笑って頷いた。
そっと手を取り合って。
次の瞬間、二人の身体は青空に吸い込まれていった。
草野は六氷に頼まれた用事を終え、火向のいる病室へ急ぎ足で向かっていた。
407号室。
その部屋のプレートを眼にすると、
がちゃ、と音を立てて戸をあけた。
「ヨイチさん、ただ今帰りました…って、あれ?」
そこに、火向の姿は見当たらなかった。
相変わらず真っ白な部屋に、先ほど置いていったさくらんぼの赤だけが映える。
嫌な予感がした。
火向を探して病室を飛び出す。
その時。
絹を裂くような女性の声が聞こえた。
思わず廊下の窓から外を覗く。
そこには―――血の海に倒れる火向の姿があった。
そこから草野は記憶が曖昧だった。
無我夢中で下に駆け下り、人だかりを掻き分け、その姿に駆け寄る。
「ヨイチさん…!」
思わず草野は涙をぼろり、と零さずにはいられなかった。
それは、火向が余りにも幸せそうに微笑んで倒れていたからだ。
真っ白い寝巻きと、真っ白い肌にべたりとくっついた真っ赤な鮮血。
きっと彼が火向を呼んだのだ。
そうとしか思いようが無かった。
「…それが一番幸せだったの?ヨイチさん……。」
そうかもしれない、そう思った。
医者や看護婦がばたばたと急いで走り寄ってくる。
草野はそんな彼らに押しのけられ、運ばれていった火向を見つめていた。
やがて人だかりがわらわらと散らばっていった。
それでも草野はそこに立ち続けた。
動けなかった。
涙が止らなかった。
―ねえ、ヨイチさん。
今頃エンチューさんと幸せに空に行けた?
失った笑顔を、取り戻せた?
その場に草野は蹲った。
嗚咽が止らない。
何に対しての涙なのか、草野にはいまいち見当が付かなかった。
火向を失った事、そして彼が幸せになれたのだろうかという疑問、
それでもこの先生きて希望を取り戻す事の出来なかった彼の悲しさ。
願わくば、火向に永遠の安息を。
草野は跪き、胸の前で手を組み祈った。
その日夢を見た。
火向が幸せそうにこちらに手を振っていた。
その傍らには円が、火向を見つめて、微笑んでいた。
眼をぱちり、と開いた草野の目じりには、涙が伝っていた。
ぐすり、と鼻をならすと、自室を出、
事務所の応接室に構えた六氷のベットへ歩いていった。
その手を軽く握る。
どうしても悲しみが治まらなかったのだ。
開く事のないと思っていた六氷の眼が開いた。
「眠れねえのか?」
「あ、ムヒョ…ごめんね、起こしちゃった?」
「別に構わん。」
「そっか、ありがとう。…ちょっとだけ、手、握ってても良い?」
「…いつまででも握っていろ。」
「ありがとう…。」
ふふ、と草野は笑った。
そんな草野の頭を、六氷はそっと優しく撫でた。
「…ムヒョ?」
「悲しければ泣けば良い。それがお前の優しさだ。」
長所でもあり、短所でもあるがな。
くくっと六氷が笑った。
今まで出来る限り平静を装おうとしていた草野の眉が、やがて歪められ、
ぽろり、ぽろりと涙を流し始めた。
六氷の手を自分の頬に当てて、声を押し殺してなく。
そんな草野の頭を、六氷はいつまでもいつまでも撫で続けた。
―ヨイチさん、元気ですか?
今、幸せですか?
救えなかった僕を許してくれますか?
どうか苦しんだ時間の分、幸福を取り戻せますように。
エンチューさんと空から見ていてください。
そして、たまには僕たちを思い出して下さい。
僕たちは、あなた達の分まで精一杯生きていきます。
それでは。
いつまでもあなたの幸せを祈っています。
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