第一話

















ジリリリリリリリリリ……。






耳元で鳴ったけたたましい目覚ましのベルの音に、ボクは勢いよく起き上がった。
目覚ましを止めて時間を見ると朝の六時。


目覚ましは念の為3個設置してあって、今日はその1個目で起きられたから上出来だ。
他の2個が後で鳴らないようにスイッチを切って、ベッドから降りる。







何だか懐かしい夢を見たな。
施設からお兄ちゃんに迎えに来てもらってもう1年が経つのに、
今でも目を覚ますと天井が施設のものと違うのに驚いたりする。



仕方ないよね、13年間もいたんだから。
習慣というものはなかなか抜けないものだと聞くけれど、
それは本当なのだということを身をもって知った。







お兄ちゃん。

お兄ちゃんがボクのお兄ちゃんだなんて、今でも信じられないときがある。
まだ一緒に暮らし始めて少ししか経ってないから当たり前なのかもしれないけど、
それだけじゃなくて、実はそう思うのには他に理由があった。



それは…。








突然、部屋のドアが開く。
「もう、ノックくらい…」
と言いかけて、ボクは言葉を失った。




お兄ちゃんは上半身裸だったのだ。
男性というものにあまり免疫のないボクは一瞬固まって、それから悲鳴を上げた。
「ヤダヤダヤダ!お兄ちゃん、どうして裸なのー!」



「ワイシャツが見つかんねェんだよ」
いちいち叫ぶな、と肩をすくめるお兄ちゃんから目を逸らして、
「タンスの…っ、2段目の引き出し…っ…」
とだけ言った。




「もー、早く出てってよう…!」
半泣き状態のボクを呆れたように見て、お兄ちゃんはドアを閉めた。
















また一人になった部屋で、ボクは早鐘のように打つ心臓を落ち着けるように、
そっと胸に手を当てた。
「お兄ちゃん分かってるのかなぁ…ボク、女の子なんだよ…?」





お兄ちゃんは、たぶん誰から見てもカッコいい。
ボクのお気に入りのアイドルなんて目じゃないくらいカッコいいんだ。
ちんちくりんなボクとは違って本当に端整だから、
それがボクがお兄ちゃんと血が繋がってるって信じられない理由のひとつなのだ。




だからお兄ちゃんだって分かってても、時々すごくドキドキすることがある。
優しくて、カッコよくて、何でもできるお兄ちゃん。
たまに意地悪なのは困るけど、ボクをからかうのも、
ボクを可愛がってくれてるのが分かるから、やっぱり幸せでたまらない。















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「あ、早くご飯準備しなきゃ!」



お兄ちゃんは高校の先生をしているから、朝が少しだけ早いのだ。
初めてお兄ちゃんの職業を聞いたとき、ボクはあまりのギャップに思わず笑ってしまった。
そんなボクにお兄ちゃんは珍しく真面目な顔でこう言った。
「教師になれば、オマエに苦労かけないで済むだろうが」



お兄ちゃんはいつでもボクのことを一番に考えてくれる。
だからボクもできることは全部、お兄ちゃんにしてあげたいんだ。











着替えてから部屋を出ようとして、ボクはあるものに気がついて、動きを止めた。
それはベッドの上。
クリーム色の花柄のカバーの一部に染みている、何か。



近づいていって見ると、それは血のように見えた。
「え、ボクどこかケガなんか…」
きょろきょろと慌てて自分の体を見回して、気づいた。
パジャマのズボンに染みる赤。





「え、え、え?これ、何、どうして?」


下着も濡れているのは感覚で分かったから、
ボクはいよいよどうしていいのか分からなくなってうずくまった。





「どうしよ…」
今までこんなことなかったのに…。



もしかしたら、悪い病気かもしれない。
よく考えたら、起きた時から下腹に鉛のような重い痛みがあった。




「どうしよう…」






お兄ちゃんに聞いた話だけれど、ボクの両親は共に病気で亡くなったらしい。
ボクがお母さんのお腹にいる時にお父さんが癌で亡くなって、
お母さんはボクを産んでしばらくして亡くなったと聞いた。





もしかしたらボクも…。


嫌な予感に、涙が浮かぶ。
やだよ、ボクまだ死にたくないよ。




嗚咽が漏れる。
お兄ちゃんには泣き虫ってよくからかわれるけど、
こんな時だもん、泣いちゃうのは仕方ないよね。



「お兄ちゃん…ボクが死んだら一人ぼっちになっちゃう…」
肉親のいない寂しさをボクは誰よりも知っている。
優しくしてくれる人がたくさんいても、肉親のいない寂しさというのは
どこか心にぽっかりと風穴を開けるのだ。




「お兄ちゃんに、心配かけちゃダメだ…」
ボクはふらふらと立ち上がった。

お兄ちゃんはボクのために頑張ってくれてるのに、
ボクが病気だって知ったらきっとすごく悲しむよ。
だから、知られないようにしなきゃ。









ボクはパジャマを脱いで、下着も新しいものに交換した。
脱いだ下着は案の定赤く染まっていて、それは改めてボクの胸を暗くする。
また泣きそうになって、ボクは必死でそれを堪えた。


泣いたらお兄ちゃんに知られちゃう。
汚れ物を丁寧にタオルでくるんで、ベッドの下へと隠す。







「だいじょうぶ。ボクはだいじょうぶ」
言い聞かせるように何度も呟いて、それから深呼吸を繰り返す。



頬に残ったままの涙を乱暴に拭うと、
いつものように学校の制服を着て、キッチンへ向かった。














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「おい、体調でも悪いのか?」


いつものように目玉焼きを焼いて、ご飯をよそって、
ボクはいつも以上に元気に振舞ってたはずなのに、
お兄ちゃんは心配そうにそう言った。





絶対に気づかれないと思ったのに、
思いがけずかけられたその優しい声と言葉に、鼻の奥がツンと痛んだ。
少しだけ潤んだ目を何度か瞬きをしてごまかして、
ボクはお兄ちゃんの背中を力いっぱい叩いた。




「ど、どうして?ボクはいつだって元気だよーッ」

えへへーと笑う僕の顔をお兄ちゃんは尚も疑うようにじっと見つめる。
あまり光を反射しない深い色彩の黒い瞳。
見つめられると嘘がバレてしまうような気がして、ボクはそっと目を逸らした。







「もう、早くしなきゃ遅刻しちゃうよ!お兄ちゃんは先生なんだから、遅刻はダメでしょ?」
そう言って時計を突きつける。



「オイ、もうこんな時間かよ」
呆然と箸を取り落とすお兄ちゃんの姿に苦笑する。


「お兄ちゃんたらホントのんびりさんなんだから…」








お兄ちゃんのスーツの背を押して、玄関まで送り出す。
靴を履き終えたお兄ちゃんに鞄を渡して、
「いってらっしゃい」と手を振る。





「あぁ、行ってくる。オマエも気をつけて学校行けよ」



「もう…ッ、ボクもう子どもじゃないんだから…っ」
お兄ちゃんは笑って、ボクの髪を撫でた。
















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玄関のドアが閉まって、家にはボク一人だけになる。
さっきまでの賑やかさが嘘のように静かで寂しい。





「あ…ッ」


ズキリ、と下腹が刺すように痛んで思わずうずくまる。
ふと見るとフローリングに赤い滴。
どうしよ…止まらない。
シャワーで流したら、少しは良くなるかな…。
太ももに筋を作るそれを乱暴に手で拭って、ボクはしょんぼりとお風呂場へ向かった。











シャワーで流すと、赤い筋は渦となって排水溝へと飲み込まれていく。
丁寧に、何度も洗い流すけれど、それが止まる気配はない。



どうしよう、どうして少しも良くならないの?
洗っても洗っても、血はカラダから溢れ出てきて、止まる気配はない。
下腹の痛みも一向に和らぐ様子はなく、それどころか増してきている。
ボク…どうなっちゃうの…。



シャワーの中に、膝を抱えてしゃがみ込む。
涙が溢れては、お湯に混じって流れていく。





「お兄ちゃん…どうしよう…」












もう何十分もシャワーの中で泣き続けてようやく涙の枯れる頃、
ボクはやっと気がついた。

病院に行けばいいのだ。
どうして気づかなかったのだろう。


お医者様ならきっと、何とかしてくれるよね。
ぐすぐすと鼻をすすって、ボクは立ち上がった。




「……え?」





目の前にあるものが二重・三重にブレて、揺れた。
ぐらりと吐き気がするほどに視界が歪んで、目の前が白と黒に点滅する。



「…あ」




何かに掴まろうとするそれよりも、倒れるのが早く、
シャワーの流れる中、ボクは意識を手放した。
















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ボクを施設から引き取ってすぐの時、
まだ教職に就いて間もなかったお兄ちゃんには恋人がいた。



学生の時から付き合っていると聞いたボクは、
せっかくできたお兄ちゃんがその人に連れて行かれちゃうような気がして、
「ヤダな…。お兄ちゃんはボクだけのお兄ちゃんなのに」と言った。





そしてお兄ちゃんはその次の日、「アイツとは別れてきた」と笑った。

ボクは信じられなくてビックリして…それに申し訳なくて。
「ボクのわがままのせい…、だよね…ごめんなさい」とうなだれた。
けれどそんなボクにお兄ちゃんは笑って、いつものように頭を撫でてくれた。





「オレは、オマエが一番大切なんだ」と、そう言って。









お兄ちゃん、本当?

本当に、ボクの傍にずっといてくれる?

ボクだけのお兄ちゃんでいてくれる?
















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「ん…」
目を覚ますと、見慣れた私室の真っ白な天井が目に入る。
ぼんやりとした頭で何度か瞬きを繰り返した。



何だかとっても嫌な夢を見た気がする。
朝起きたら血まみれで、悪い病気になっちゃう夢。






寝返りを打とうとして、鈍く感じる下腹の痛み。
え、どうして、と思って髪にふれる。
しっとりと濡れた感触。




「夢、じゃなかった…?」
じゃ、どうしてボク、ベッドなんかに…。
記憶がほんとうなら、ボクはお風呂場で倒れたはず…だよね。







痛みに堪えながら上半身だけを起こすと、部屋のドアが開く。
「お、目が覚めたか」



「お、お兄ちゃん?どうして…」





お兄ちゃんは手に持っていた紙袋を机の上に置くと、
椅子を引っ張ってきて、ベッドの傍に座った。




「今朝からオマエの顔色が悪かったからな、気になって戻ってみれば風呂場に倒れてた」
全く、相当焦ったぞと笑うお兄ちゃんに、ボクは血の気が引く思いだった。


あの時ボクは、間違いなく全裸だったはずだ。






「ボクの裸、見たでしょ…!お兄ちゃんのえっち…ッ!」


恥ずかしさのあまり泣きそうになって、ボクはお兄ちゃんの顔に枕を押し付ける。
どうしようどうしよう…はずかしいよ…。





「見たっつーか、見えたな」


「もう…ッ、お兄ちゃんなんか、嫌い…ッ!」





嫌いという単語にあからさまに傷ついたような顔をして、
それからお兄ちゃんは我に返ったように真面目な顔になった。




「体はどうだ?」



「へ…?」





裸を見られたショックでうっかり忘れていたが、そうだ、ボクは病気なんだ。
唐突に思い出し、そしてお兄ちゃんがいることに安堵したボクはポロポロと泣き出した。
「お、お兄ちゃん…」
ふえーんと情けない声を上げて、ボクはお兄ちゃんにしがみついた。




「ボク…ボク…悪い病気になっちゃったのかなぁ…」


嗚咽混じりに訴えるボクに、お兄ちゃんはきょとんとした様子で
「病気?」と聞き返してくる。




「だって、だってね、血がどばーって出たの…!」






と、お兄ちゃんが突然大声で笑い出した。
それはもう本当に可笑しそうに。



どうして?
どうしてこんな時に笑えるの?






そう抗議しようとしたボクに、お兄ちゃんは必死で笑いを堪えながらこう言った。
「それ、病気じゃねェぞ」
くっくっくと尚も笑い続けるその肩をゆさゆさと揺すって、
「どういう、こと?」と尋ねる。






「まさか今日が初めてだったとは、な。保健の授業でやらなかったか?」


保健の授業と聞いて、ボクは顔をしかめる。
ボクは保健の授業がキラいだ。
何だか恥ずかしい内容のものが多くて、まともに教科書を開いたことすらない。




それをそのまま伝えると、お兄ちゃんは一瞬教師の顔になる。
「んなことするから、今日みたいなことになるんだろうが」







「仕方ねぇな。オレが教えてやる」
そう言ってボクの本棚から保健体育の教科書を引っ張り出すと、あるページを開いた。
それはボクが最もキライで、見ないようにしていた場所。
「や…、お兄ちゃん、ボクそんなの知りたくないよ…!」



お兄ちゃんは、ボクの手を強く握って、優しく言った。
「オメェのためなんだ。分かるだろ?」


ボクは涙目でお兄ちゃんを見上げた。
どうしよう、恥ずかしい。でも…。





「うん…。分かる」
お兄ちゃんが、ボクのためにならないことをするはずがないもの。

















お兄ちゃんはとても分かりやすく、丁寧にボクの知らなかったことを教えてくれた。
あぁ、ホントに先生なんだなと今更なことを考えて、
お兄ちゃんの授業を受けられる生徒さんたちが羨ましいなって、そんなことも思った。





「じゃ、じゃぁ、ボク、病気じゃないんだね?」


「当たり前ェだろ」



「死なないんだよね」


「当然だ」






ボクはほっとして胸を撫で下ろした。
お兄ちゃんの授業はやっぱり恥ずかしかったけど、知ることができて本当に良かったって思う。




「良かった…ボクが死んじゃったら、お兄ちゃん一人になっちゃうもん…」




「なんだ。んなこと考えてたのか」
呆れたように笑って、お兄ちゃんはボクの髪をくしゃっと撫でてくれた。
















「まぁ、これでオマエも大人の仲間入りってこった」
ニヤリと笑うお兄ちゃん。



「な、なんかお兄ちゃんが言うと…やらしい…」



「今夜は赤飯でも炊くか」
ボクは顔を真っ赤にして、お兄ちゃんの胸を叩いた。
「バカ…ばかばか…ッ」
お兄ちゃんはそんなボクを見て、本当に楽しそうに、笑っていた。















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お兄ちゃんが席を外したあと、ベッド脇の机に置いてある紙袋に気がついた。
「なんだろう…」
袋を開けてみると出てきたのは生理用品のパックと生理痛に効く薬。



ボクのために、買ってきてくれたんだ…。
こんなの、男の人が買うのは恥ずかしくなかったかな…。
と考えて、でもお兄ちゃんならきっと平気な顔で買えたんだろうなと思ってボクは笑った。






仕事もほっぽり出して、ボクのために帰ってきてくれたお兄ちゃん。
お兄ちゃんの服は少し湿っていた。
たぶん濡れるのも気にしないで、シャワーの中に飛び込んだのだと思う。



お兄ちゃん、ボクのお兄ちゃん。
誰よりも優しくって、カッコいい、ボクの大切なお兄ちゃん。






さっき、大嫌いって言ったの、謝らなきゃな…。
そんなことを思いながら紙袋を抱きしめて、ボクは笑った。