絶望とは底の見えない沼のようなものだ。


もがいてもがいて上に向かおうとしても見えない何かに
脚をひかれてより深く沈んでいく。





ああ、もう二度と青い空など見えないのではないかと、
そんな思いを全身に刻み込まれて、
やがて這い上がることを諦めてしまう。

















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空は青く、目に痛いほどだった。
両親の葬儀の時のように、悲しくなるほどの青。




雨は嫌い。
けれど同じくらいにこの晴れた空が嫌いだということに、最近気がついた。



空が青くて太陽が眩しくて、
そうあればあるだけ、足元の影は深く濃くなっていく。
いつでもカラダを引きずり込んでいってしまいそうなほど暗い闇は、
どこにいても足元から離れようとしない。
まるで、お前は闇から離れられないのだと、
これは紛れもなくお前の中の闇なのだと、宣告されるような思いだった。







そんな影を見つめるのが嫌で、
僕は空を仰いだ。



透明にさえ見える、空は淡い水色。
スジ状の雲がゆったりと流れている。
どこに向かっているのだろうか、遥か上空に飛行機の機影が見えた。







六氷先生。

僕は六氷先生に変えられたと思う。
乱暴な物言いのくせに、それでも僕を優しく包んでくれた。
僕の中にある孤独とか絶望とかは消えずに膿んでいるけれど、
それでもあの人の存在が僕にそれを忘れさせてくれる。
あの人がいなかったなら、
僕はこうして外を歩くことすらできなかったかもしれない。






「先生…」
ズキリと胸が痛む。
思わず呼吸を止めたくなるような切ないような、そんな痛み。
飛行機が残していった雲を見つめて、僕は溜息をついた。





僕は、あの人のことを好きになってしまったのかもしれない。
それは嬉しいというよりもむしろ、
泣きそうなくらい切ない想いに近かった。



だって僕には、先生に想いを伝える勇気などありはしないし、
こんな想いを先生に知られてしまうことの方が怖かったから。
















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日曜日。
何となく何かに呼ばれるような思いで外に出たくなって、
次郎はアパートの近くをのんびりと散歩していた。

特に目的などもなく、ただふらふらと、景色を楽しむように。




近所には大きな公園があった。
まだ早い時間だからだろうか、園内はほとんど無人で静かだった。


子どもの頃はよく母さんに連れられて公園で遊んだっけ…、
そんなことを思って次郎は口元を綻ばせる。
砂場でお城を作るのが上手だった次郎は、
立派な作品を作っては母親を驚かせていた。






公園には大きな木が何本も立っていて、
時折吹く風にその葉をざわざわと揺らせていた。
ベンチに座って目を伏せ、葉と風の奏でる旋律に耳を傾ける。
光も影も目に入らない。
それでも自然に包まれているのは心地よくて、安堵する。







カサリと、葉を踏むような音が聞こえた。

誰かが僕と同じように早朝の散歩をしているのだろうか。
尚も眠るように目を伏せた彼の前に来て、その足音は止まった。





それに気がついて、次郎は瞼を持ち上げる。
逆光で一瞬目に痛みを感じた。
誰かが立っている。
一瞬六氷かと期待して、けれどもそれはすぐに否定される。
身長は六氷より低く見えたし、
何よりその相手にはどこか病弱そうな弱々しいイメージを受けたからだ。



肩に掛かるくらいの長い髪。
切れ長の眼差しは、睫毛が長く、肌は透き通るように白かった。
男性なのだと思うけれど…キレイな人だな…と思う。




「あ、の…何かご用でしょうか…」
立ち尽くしたまま何も言おうとしない相手に困惑して、
次郎は怯えたようにやや体を後ろに引いた。



その人はとても美しかったけれど、
同時に言いようもない冷たさのようなものも感じた。
迫力…とでも言うのだろうか。
ところがその相手は思いのほか優しい微笑みをつくって、
かぶりを振った。




「僕もね、このベンチで葉の擦れる音に耳を傾けるのが好きなんだ」
そう言って笑う。






そよりと吹いた風に彼の長い髪が一瞬浮いた。
そうして見えたその首筋に、痛々しく引きつったような傷を視とめて、
次郎は小さく息を呑んだ。
それに気づいた相手は、苦笑してごめんねと呟いた。




「昔…事故でね。気持ち悪いよね…だから髪で隠すようにしてるんだけど」
眉間を微かに寄せて笑う姿は、とても苦しそうに見えた。



だから次郎はブンブンと何度も大きく首を振る。
「そんなこと…ないです」
だって僕の背にも、同じような傷があるから。



今度はその相手が目を見開く番だった。
「君、にも…?」




「はい…事故で…」
呟いて俯く。



「事故に遭ったのは、君だけ?」




「いえ…両親は亡くなりました…」
自分から持ち出した話題とはいえ、やはり胸苦しいものを感じて目を伏せる。
肺に鉛を押し込められるような思いを味わう。




「そう…ごめんね、ツラいことを…」
その人の白く細い指が、次郎の頬を撫でた。
ひんやりと心地よいその体温。
さらりとした肌質は上品な絹のようだった。








次郎も恐る恐る手を伸ばす。
伸ばして、その人の首筋にふれた。
ふれられて、一瞬そのカラダが強張る。
そこは手のひらのすべらかさと違って、爛れたように引きつった感触だった。
いたわるように指先で何度も撫でる。



「アナタの痛みが…なくなりますように」
ぽつりと呟いて。





次郎の頬にふれるその人も、静かに呟いた。
「君の痛みも…」
















それから二人はほんの少しの時間、言葉を交わした。

次郎がこの辺りに越してきたばかりだということや、
相手もイギリスからつい昨日帰国したばかりだということ。
この公園の一番良い場所がこの公園のベンチだということや、
早朝のこの時間が一番好きだということなどを。




とりとめもない会話はふと終わりを告げて、
その人は立ち上がった。
「あぁ、もう時間だ…そろそろ行かなきゃ」





次郎も立ち上がって、ペコリと頭を下げる。
「あの…とても楽しかったです…」



「うん、僕もだよ」
にこりと笑った顔は優しくて。
次郎も微笑み返した。









「またね」と踵を返しかけて、その人は振り返る。


「ね…君は大切な人はいる?」
逆光でそう言う彼の表情は見えない。
けれども真剣なその声に、次郎は戸惑って息を呑んだ。




ふふと空気を揺らして笑う声が風に攫われていく。
「僕はいるよ。大切な人がいたら、痛みを忘れることができる」
もっともその相手は、僕に振り向いてくれないんだけれどね。
何に想いを馳せているのだろうか、くすくすと幸せそうに笑って、
彼はもう一度次郎を見つめた。






「君にも、大切な人見つかるといいね」














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また一人になったベンチに腰掛け、次郎は空を見上げた。
『大切な人はいる?』
そう言われた言葉が未だ胸の奥に反響している。



その言葉が、迷う次郎の心に道しるべのように残った。
大切なひと。
言われて思い浮かぶのは、一人しかいない。















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公園を出た長い髪の彼は、
路肩に留めてある黒塗りの大きな車へと迷うことなく向かって行った。
車の脇にはスーツを着た目つきの鋭い男。
その男は「お帰りなさいませ、宙継さま」と恭しく頭を垂れ、車のドアを開ける。




車に乗り込んですぐ男から書類を受け取り、
宙継と呼ばれた彼はそれに丁寧に目を通した。
その書類には六氷の写真が貼られている。
そして、彼の行動などが細かく記されていた。




「これが…最近の六氷の様子?」


「はい」




じっと書類を見つめる彼の目はある一点にて留まっている。
そこには『草野次郎』の文字と写真。




「僕ね、さっきこの草野って子に会ったよ」


「は、それは…」


「偶然なんだけどね。僕の特等席で気持ち良さそうにしていた」





目を伏せる。
慈しむように首の傷にふれた指の感触はまだ残っている。





「いい子だったよ。僕は好きだな、あんな子」


スーツの男は稀に見る主人の考え込む様子に戸惑う。
こんな表情で誰かのことを話す彼を見るのは初めてだった。





「それでは…どうなさいますか」



宙継は器用に口端をつりあげるようにして笑った。
怜悧な表情で、手にした書類を放る。




「決まってる。…追い出してよ」


「……」




「六氷の傍にいてもいいのは、僕だけなんだから。そうだろう?」






眇めた瞳に映る剣呑な光に、背筋が寒くなるような思いを覚えながら、
スーツの男は深く頷いた。



























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