目覚めるのが怖い。


目を開けたら、その先に何があるだろう。




夢から解き放たれて、意識がカラダに返ってきて、
ようやく瞼を持ち上げるまでのその刹那に、
僕はいつもそんなことを思う。












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あたたかい。




目覚めたばかりだというのに、
また眠りの奥へと沈んでしまいそうな、そんな柔らかさ。




あたたかい。

あたたかい。


優しい。



染込むようなその感触に、
これはなんだろうと思うよりも先に、
キモチがふわりふわりと包まれるのを感じる。








「・・・草野?」

ふと鼓膜を叩いた声に、次郎はゆっくりと瞼をこじ開けた。
ずっと目を伏せていたためか視界が僅かにぼやけて、
何度も目を瞬く。




そんな動きを何度かして、
彼はようやく声の主に、戸惑うような視線を投げかけた。


視線の先には六氷。
いつもと変わらない不機嫌に見える表情が、
いつもより曇って見えるのは気のせいだろうか。
黒曜石の瞳が静かに次郎を捉える。
「あ、の・・・僕、どうして・・・」




見回す先には、清潔そうな真っ白の壁、
窓枠と自身が眠るベッドの周囲に同じく真っ白のカーテン。
ベッド脇の簡素なテーブルには水を張った洗面器と、濡れタオルが置いてある。
波紋の残る水面と、自らの肌のひんやりとした感触に、
次郎は今までそれが自身の額に乗せられていたことを知る。



そして、ぐったりと力ない彼の手を握る、六氷の大きな手。
ああ、あったかく感じたのは先生の手だったんだ・・・。
そうしてまた心が穏やかに安堵するのが分かる。
六氷が僅かに息を吐き出した。




「覚えてないか?」


次郎はほんの少し躊躇ってから、ゆっくりと首肯いた。

2時間目までの授業のことはおぼろげながら覚えている。
けれどそれ以降はまるで濃い霧が立ち込めるように、
記憶自体が白く霞んでしまっていた。
途切れた記憶の糸を見失わないよう、
ゆっくりゆっくりと手繰り寄せながらふと気づいた。




前にも、こんなことがなかったか。


「僕・・・気を失ったんですか」


肯定する六氷を視界の隅で捉えて、
次郎はふいにこめかみが痛むのを感じ眉間を寄せた。
心臓が体内に血液を送り出す度に、
それはズキリズキリと脈打つように痛み、
けれどそれが逆に意識をはっきりとさせる。



は、と短く息を吐いた次郎の瞳を覗き込むように、
六氷は顔を寄せた。




「大丈夫か?」


やっぱり先生の目はキレイだな、なんて思いながら、
次郎は少しだけ笑った。




「大丈夫・・・だと思います」

「雨の日とか・・・時々、あるんです。意識を失くすこと。」



そうしてもう一度瞼を伏せる。

ベッドの傍らには大きな窓があって、
カーテン越しに夕日が差し込んできていた。
それが薄い瞼の皮膚をフィルターにして、
視界を薄橙に染める。




「昼間はあんなに大雨だったのに、もうこんなに晴れてるんですね」
言われて、六氷は窓へと視線を移した。


窓のすぐそばには校舎の入り口から門へと続く道と、
木と呼ぶには大げさすぎる小柄な植物が見え、
その先には夕日に紅く染まる校庭が見えた。
部活中の生徒だろうか、グラウンドを走る疎らな人影も見える。
昼間の大雨の名残に、僅かな水たまりが見られる以外、
それはとても鮮やかな夕暮れだった。



次郎は目を伏せたまま、首だけを窓の方に向けた。



「雨は嫌い」

「思い出したくないこと、思い出すから」



そう言う、その表情は変わらない。
六氷先生はきっと僕がどうして倒れたかも知っているだろう。
けれど何も言わずにいてくれる、その気持ちが嬉しい。




「夕暮れも嫌いです。」

「・・・何故?」


口元に笑みを浮かべる次郎自身も、
沈みかける太陽に飲み込まれるように紅に染められ。
唇を震わせるその姿に、ほんの僅か六氷は目を眇める。




「だって、みんな真っ赤なんです。・・・まるで血みたい」
そう言って、それに・・・と付け加え、躊躇う。



「・・・・・・それに?」

「この時間になったらみんなお家に帰っちゃうから・・・」
だから、嫌いです。




そうして笑う次郎は弱々しくて、ふれたら壊れてしまいそうだった。
六氷は無言で握ったままの手に視線を落とす。


白く、細く、繊細な手。
この柔らかな手にどれほどの傷を抱えているのだろう。




「おい、草野」


夢見るようにもう形の見えなくなった夕日の名残を見つめる次郎は、
呼びかけに首を傾げるように振り返った。
六氷の表情は変わらない。




「オマエ、飯作れるか?」

「?」


唐突な問いに、次郎は2・3度目を瞬かせた。
意図が把握できないまま、素直に頷く。


幸い家庭科の成績は昔から良く、料理なども得意だった。
いいお嫁さんになれるわなんて、
冗談めかしてよく母親に言われたことを思い出す。




「今日、オレの家に来い」

「へ?」


突然の提案に変な声が出てしまう。

一体、どういう脈絡でこんな話の流れになったのだろう?
状況を理解できていない次郎は、疑問そのままに首を傾げる。
一方で六氷は柄にもなく言いにくそうに、視線を泳がせた。




「たまにはカップ麺とチャーハン以外の飯も食いたいんだよ」

「・・・先生、いつもそんなのばかり食べてたんですか」


唖然としながらも、ようやく気づく。
六氷が、自身を気遣ってくれていること。
次郎は不器用ながらも六氷の優しさが嬉しくて、微笑んだ。












あたたかい。




あたたかいと思う。



そう感じるのはきっと、握られている手のせいだけじゃない。











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少し朱の混じる、薄紫の空の下。

まだ明るさの残る空に、僅かばかりの星が瞬き始めるのを見ながら、
次郎は黙って歩いた。





隣を歩く六氷の横顔をふと覗き見る。
一人ならもっと速く進めるだろうに、
けれどそれをせず同じペースで歩いてくれている。
それがとても嬉しかった。




「六氷先生」

「何だ?」



「・・・ありがとうございます」


何が、とは言わなかった。
六氷も何も聞き返しはしなかった。
ただ、黙って前を見据えたまま小さく頷いた。



次郎は天を仰いで、まだほとんど見えぬ星の数を数える。

煌めく星々は淡い黄を纏って空を彩っていた。
星が輝いて、その光が地球に到達するまでには
途方もない時間がかかるというのを聞いたことがある。
僕が今見てるヒカリは何百年前の輝きなのだろう。




「今見えてる星、何年かかって地球まで届いたんでしょうね」

「・・・さァな」


ふと目を伏せると風が気持ちいい。
次郎は鞄を持つ手にキュと力を入れた。




「六氷先生」

「ん?」



「手、つないでもいいですか・・・?」





覗き込むようにして見た六氷の表情は変わらない。
そうしてしばらく歩いて、六氷は思い出したように口を開いた。




「・・・勝手にしろ」














六氷先生の手。


大きくて優しくて、
ふれているだけでしあわせだと思える。





星の光が永いときをかけてここへと到達するように、
この温もりが永遠であればいい。







そんなことを思って、次郎はもう一度空を見上げた。


















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