多分、少しだけ。
ほんとうに少しだけ、動いてしまった。



――――――心が。



泣き虫の僕が、泣くのを恐れていたこと。
泣けば泣くだけ両親の死が見える気がするなんて、
ひとりで泣けないなんて。



僕に泣くことを許してくれたその手のひらの感触が、
まだ額に、瞼に、頬に残っている。





揺れる。
揺れる。
揺りかごのように。




アナタという存在に揺れる僕がいる。










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その日は体調も、精神状態も、ほんとうに最悪だった。


朝からどうにも胃の辺りはキリキリと締めつけるように痛み、
もやりとした陰鬱な思いばかりが次郎の胸の奥に渦巻いていて。
いつもの目覚ましが鳴る数時間も前に目覚めて重い瞼をこじ開けるも、
起き上がる気にはなれず、もう長いこと布団にくるまって天井だけを見つめていた。
指先ひとつ動かすのでさえ憂鬱で、
呼吸をするのも億劫で、
このままずっと眠ってしまっていたいと思った。




何だか、嫌な夢をみた気がする。

思い出そうと努力するも、何も思い出せず、
それが更に今の不快な気分に拍車をかけた。




憂鬱の原因は分かっている。
次郎はのろのろと窓の方に視線を向けた。

外は雨。
それも土砂降りだ。
窓ガラスを打つ雨粒。
地面を叩くその音。


あの事故の日と同じだ。





カウンセラーの先生に言われた言葉を思い出す。
人は深い衝撃を受けると、その当時と似た気候、似た空気、光景、音、におい・・・
ただどんな些細なものでも深層の傷を刺激して、
思い出したくないことを思い出してしまうのだと。
記憶としてではなく、カラダがそれに反応してしまうのだと。
事故後、毎日のように事故と同じ時刻に嘔吐していた自分を思い出す。
治らないんですか、と尋ねたら、
難しいが一概にどうしろとは言えないと返された。




目を伏せて短く息を吐く。
どうしようどうしようと迷う心に、外の雨音が混じる。
学校なんて休めばいいのだ。

でも。
けれど。
ふと、六氷に会いたいと思った。
何となく、あの人に会ったらこの重みが、痛みが少しだけ楽になるような気がした。





次郎は引きずるように体を起こした。
重い。
指先から体の全てに、鉛が詰まってしまったかのように。

「苦し・・・」
ポツリ呟く声は、静かに雨にかき消された。











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学校に着いた頃には、
周囲のエネルギーに溢れた喧騒にも手伝われてか、少し体調も良くなっていた。




次郎の席は窓側の一番後ろ。
中途での転校生の席など大抵こんなものだろうか。
窓のすぐ下には大きな木が見下ろせる。
いつもは元気な葉も、今は大粒の雨に打たれて、
その一枚一枚は元気なく頭を垂れていた。

これ、何て名前の木だったかな・・・そんなことを考えて、
次郎は目を伏せる。
「・・・・・・」





「どうしたの?」
と、肩を叩かれた。
振り返ると、笑顔の元気そうな女の子が立っていた。
黒く長い髪を髪留めで留めて、溌剌とした可愛いタイプの子。
次郎は覚えたてのクラスメイトの名前の幾つかを脳内で検索して、
ひとつの名前を思い出す。



「え・・・っと。ナナ、ちゃん?」
その子はニコリと笑って、頷いた。
「覚えててくれてありがとう。良かったわ・・・誰?って言われたらどうしようって思っちゃった」
「もちろん覚えてるよ、僕が転校してきて一番に話しかけてきてくれたのが君だったから」
彼女が新しい学校での不安を和らげてくれたことは今でも覚えている。
その後も時々挨拶程度でも声をかけてくれた。

すると、ナナが覗き込むように次郎と目線を合わせた。
首を傾げる次郎に、心配そうな表情を向ける。
「ね、草野くん。さっきから顔色悪いけど・・・大丈夫?」



次郎は慌てて首を振った。
教師はともかく、生徒は彼の転校の理由とかそういうのをまったく知らない。
だからこそ気づかれちゃいけないと思った。


「だ、大丈夫。少し寝不足なだけだから・・・」
そう言うも、ナナはまだ疑わしげな顔をしている。
次郎は半ば無理矢理に笑顔を作って、
「大丈夫・・・ほら、もう授業始まっちゃうよ!」と言った。
「ええ。無理はしちゃダメよ?」
念を押されて、彼は頷いた。









1時間目の授業はただ退屈なだけだった。


2時間目の授業でふと時計を見て気づく。
3時間目の中ほど、あの事故の時間と重なることを。

最近はあの時刻で体に異常をきたすことはほとんどない。
けれども今日の精神状態に一抹の不安を感じて、
次郎はきゅっと眉間を寄せた。









3時間目。
六氷の数学の授業だった。




あの時間が、近づく。


動悸が激しくなるのにも、
妙に喉が渇いて口内がカラカラになるのにも、
額に冷や汗が浮いているのも感じていた。





ツラい。
苦しい。

死んでしまいそう。



そんな言葉が決して大げさではないほどに、
もやもやとした捉えどころのない塊は、体内で出口を探して渦巻いている。
六氷の授業でなければきっと早退しているだろう。



黒板に数式を書いていく六氷の姿を、
じっと見つめる。
そうしていれば、少し痛みが和らぐような気がした。
ほんとうに気休め程度だけれど。




もうすぐあの時間。




時計など見ていないのに、
誰かが心の奥でカウントダウンを始める。
一歩、また一歩と近づいてくる。




やめて、と切願する。
お願いだからやめて、と。





壁に掛けられた時計の秒針が時を刻む音が、
やたらと耳に残った。
ふと気がつくと、それ以外の音が聞こえない。
目の前にいる筈の級友の姿が、そして六氷の姿が
歪むようにねじれていく。

息がくるしい。




息、いきをしなきゃ・・・。
酸素をすって、吐いて・・・。
酸素・・・さんそ・・・。
くるしい、くるしい。
分からないよ。



呼吸って、どうやってするんだっけ・・・。




真っ白になった視界がぐるりと反転して暗闇に堕ちる寸前、
六氷の声が聞こえたような気がして、
次郎はほんの少し笑った。











教室に、驚愕の悲鳴が広がる。
一瞬何が起きたのか理解できず皆が固まる中、
六氷だけがその呪縛を解き、椅子から転げるように倒れた次郎に駆け寄った。



屈んで額に触れ、それからその襟元を緩める。
動揺する周囲に、
「気ィ失ってるだけだ。オレが保健室連れて行くから、オマエらは自習しとけ」
とそれだけを言い、ぐったりとした次郎の体を抱き上げる。
思いのほか軽いそのカラダに、六氷は僅かに眉を寄せた。




教室を出て行く間際、ナナが「あの・・・」と呼び止める。
「草野くん、朝からすごく顔色悪かったんです」
そう言って心配そうに唇を噛んだ。
六氷は頷いて、「大丈夫、すぐ元気になるさ」と、それだけ言った。











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夢をみた。
母さんの夢。
白い霧の中で僕を手招く。



差し伸べられた手をつかみかけて、
僕は気づく。




母さんには、顔がない。
真っ白だ。
真っ白。


ざわりと肌が粟立つのを感じた。
あとずさる僕に近づくその姿。




ゆっくりと、ゆっくりと、顔が浮き上がる。
白い面に、白い顔。
紅いしずく。



そう、あかいしずく。
全身からあふれ出す赤。





顔が浮かび上がる。
それは、死の間際、苦悶の表情だ。

















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