「う・・・っわ・・・」 六氷の部屋に足を踏み入れた次郎の最初の言葉はそれだった。 恐らくそれ以外にその時の感情を表せる言葉が見つからなかったのだろう。 そう一言発したあと、立ち尽くしてしまう彼に、 六氷はあからさまに嫌な顔をした。 「テメ・・・なんだその反応は・・・」 「わわ・・・す、すみません。・・・だってあまりにも・・・」 “あまりにも”その先は、 目の前の光景が充分すぎるほどに物語っていた。 次郎がそう言ってしまいたくなるほどに、 その部屋の散らかりようと言ったらなかった。 彼が今まで生きてきた十数年の中で見た部屋のワースト3に入るであろうその部屋。 どうしたらこんなに散らかせるのさ・・・。 声には出さず飲み込んだ言葉は、 けれど六氷には届いてしまったらしい。 「仕方ねぇだろ。片付けんのニガテなんだよ」 と、バツの悪そうな顔をする。 何をするにも、何を言うにも偉そうで一見完璧そうな彼の意外な一面に、 次郎はくすくすと笑った。 六氷はネクタイを邪魔そうに緩めながら、 控えめに笑う次郎を無言で見つめる。 それから手にした鞄を無造作に放り、 「なんだ、ちゃんと笑えるんじゃねぇか」と言った。 「え・・・」 きょとんとする次郎に背を向けて、六氷は独特の重低音で続ける。 「オマエがここに来てからもう一ヶ月になるっけか・・・まともに笑ったの見たことねぇからな」 「あ・・・すみません」 俯く次郎の頭をぽんぽんと軽く叩いて、 「謝る必要はねぇよ。無理して笑うこともねぇしな」と言う。 次郎は微かに目を見開いた。 「知ってたんですか・・・?」 クラスになるべく溶け込めるように、笑顔はたやさないようにしていた。 それは心からのものではなく、ただの便宜上の笑顔。 誰もそれに気づいてないと思っていた。 「まぁな。少し見てりゃ気づく・・・って、おい、そんな顔すんな」 知られたくない弱みを見せていた自身が情けなくて俯く次郎に、 六氷は眉を寄せた。 「仕方ねぇヤツだな・・・まぁいい、その辺座れ」 とその手が指し示す場所には分厚い書籍が山積みになっている。 六氷が乱暴にその山を崩すと、その下からソファが現れた。 差し出された紅茶を受け取って、次郎はそこに腰掛ける。 六氷は「ちょっと待ってろ」と、キッチンへ入っていった。 その後ろ姿を見送り、次郎は傍で乱雑に散らばった分厚い本の一冊を手にとって、 そのページをパラパラとめくる。 「わ・・・何、これ・・・」 そこには見たこともないような複雑な数字と公式の羅列がビッシリと並んでいた。 見るだけで眩暈を覚え、ぱたりと本を閉じる。 するとその本の合間から薄い紙のようなものが落ちた。 「・・・写真?」 拾って、裏返す。 それは家族写真と思われた。 父親らしき人、母親らしき人、そしてまだ幼い六氷。 それは繰り返し何度も手にしたのか、角の方は曲がり、 全体で見てもよれよれになってしまっていた。 今の姿をそのまま小さくしたような幼い六氷の容姿に、次郎は少し笑う。 六氷が戻ってくる足音が聞こえて、 次郎は慌ててその写真を元の本に戻した。 自身の家族のことを引きずっているからか、 まだ家族というものの話題は進んでしたくはなかった。 だから何気なく他の本を手にとって、誤魔化す。 「なんだ、オマエそんなの読んで意味分かんのか?」 開いたページの先にはまたも謎の文字。 「ち・・・ちんぷんかんぷんです・・・ワケの分からない数字ばかりで・・・」 「だろうな」 頭上から大量のクエスチョンマークを飛ばして眉間を寄せる次郎に、 六氷は苦笑した。 「六氷先生・・・こんなの読めるなんてすごいな・・・」 「バカか・・・オレの担当教科は何だ?」 呆れたように言う六氷。 「あ・・・。そっか、数学ですね」 一人頷く次郎の前に、六氷は「食え」と器を置いた。 器ではチャーハンが湯気を上げていた。 「これ・・・六氷先生が?」 次郎の前に腰掛けて足を組みながら、彼は 「オレはこれしか作れねぇんだ」と偉そうに言う。 またも意外な姿に、次郎は笑う。 「おい、草野」 「へ?」 頬杖をついて見つめられる。 蛍光灯の僅かな光を映す漆黒の瞳に吸い込まれそうな感覚を味わいながら、 次郎は思わず息を止めた。 この人のこの目はニガテだと思う。 よく分からないけれど、少し眩暈がして、少し呼吸がしづらくなる。 変なキモチ・・・。 どこか居心地の悪い思いを味わって、次郎は少し視線を泳がせた。 そんな彼に気づいているのかいないのか、 六氷は口端を上げて笑った。 「やっぱりな。オマエ、笑ったほうが可愛いぞ」 ・・・・・・・・・。 固まる。 ちょっと待って、と思った。 「か・・・可愛いって・・・」 僕は男なのに。 それ以上に、ニヤリと笑う六氷のいたずらっぽい表情に、 鼓動を早めてしまう自分に戸惑う。 「もう・・・ッ。変なこと言わないでください・・・!」 僕の感情の流れに気づかぬように、 六氷は肩をすくめて前髪をかき上げた。 「食えよ、冷めるぞ」 勧められて食べた一口目は緊張で味が分からなかった。 二口目はすごくおいしかった。 久し振りの手料理というものの味に懐かしさと温かさを覚えて、 今度は六氷に気づかれぬよう、次郎はそっと微笑った。 ---------------------------------- 食事を終えて、少しばかりの雑談を交わして部屋を出る頃には、 外はもう真っ暗になっていた。 半月の月明かりが街頭と共に柔らかく淡く、闇に沈む街を染める。 マンションの階段を下りながら、 「悪ぃな、すっかり遅くなっちまった」と言う六氷に、次郎は 「いいえ・・・楽しかったです」と首を振った。 「そうか、また来いよ」 少しだけ躊躇って、それから次郎は笑って頷いた。 「はい。今度は・・・部屋を片付けに」 ---------------------------------- 「家まで送ってやるよ」 そう言って駐車場へ入っていこうとする六氷の服の裾を、 次郎はつかんで引き止めた。 「だ、大丈夫です」 「んなワケいくか。」 眉を寄せる六氷に、次郎は弱々しく首を振った。 「ごめんなさい」 六氷の裾を握る手が震えている。 そうして消えそうな声で短く言った。 「車、怖いんです」 微かに目を見開いて、 六氷はそっと次郎の頭を撫でた。 「悪ぃ・・・気づかなかった」 事故後、次郎はしばらく車に近づくことすらできなかった。 衝撃でその瞬間のことはほとんど覚えていないのに、 車を見ると彼の体はその全身でそれを拒否した。 最近ようやく少し落着いたけれど、 それでも乗るという行為は未だ思考の端に上らせるのも恐ろしかった。 「ごめんなさい・・・だから、一人で帰れます」 気丈に笑う次郎に、 「そんな風に笑うんじゃねぇよ」 そう言って六氷は手のひらで彼の両目を覆った。 「六氷先生・・・」 「ツラいなら泣けばいいだろが」 声を詰まらせるように、次郎は息を飲んだ。 裾をつかむ手が、関節が白くなるほど強く握られる。 俯いて静寂を保ったままの揺れる肩を見つめて、 六氷は何か想うように瞳を眇めた。 11月の、冷たくなり始めた風が、淡く月の光を燦然と受けて輝く。 まだ夜の帳は上がりそうにない。 |