やっぱり・・・帰ろうかな・・・。



今にも降りだしそうな、鈍色の空。
昔、喪服の色としても使われていたというその重い色は、
次郎の心にも、くすんだ影を落としていた。



目の前には学校の門扉。
以前通っていた学校よりも格段に大きいその校舎に圧倒されながら、
彼は前に進もうとしない足をじっと見下ろしていた。


気が進まない。
ほんとうは学校などに来る気分じゃない。
それを自身で分かっているからだった。




何をしていても、
否が応でもこの心は両親のことを思い出そうとする。
癒えたはずの背中の傷までもが、
ズキズキと熱を持って疼く。


背中の傷痕は消えていない。
引き攣れたようなその傷は、
まるで僕に記憶の忘却を許さぬような、
そんな醜さでその存在を主張する。





痛いと思う。
痛いと思うのは生きているから。


痛いと思う。
痛みを感じることができる幸せを、痛いと思う。



悲しいのは痛いから。
痛いのは悲しいから。





もう一度学校を見上げる。
転校生だから遅刻しても、欠席しても文句は言われないだろう。
理由付けなんていくらだってできる。


けれどそうしたなら、みんなはきっとこう思うだろう。
“両親を亡くして傷心なのだから仕方ない”と。



それは堪えられない、と次郎は思った。
絶望の深さも、
世界で自分を一番に愛してくれたふたりを失った悲しみも、
それを知らぬ他人に分かったような顔をされるのが
何より一番ツラくて悲しいことだと思った。



深く溜息をつく。
地面に張り付いたように動かない両足を、
恨みがましく見つめる。
心の反発を、体はよく分かっている。
行きたくないという深い本心が、体を固めてしまう。




「おい。何してんだ」

ふいに腕をつかまれ、次郎は驚きと共に顔を上げた。
身長の高い相手を見上げる形になりながら、
突然のことに脳がついていかず、言葉が出てこない。




誰だろう・・・。
初めて見る顔だった。


印象的な黒曜石の切れ長の瞳。
寝癖なのか本人のポリシーなのか、後ろ髪はひょこりとはねている。
曇天のせいなのか悪く見える顔色と、それに似合わぬ重低音の心地いい声。




カッコいいと思った。


きっと笑えばもっと素敵なのだろう。
けれど相手の口元には笑みの欠片すらなく、
その眉間は厳しく寄っていた。




「オマエ、見ねぇ顔だな。ここの生徒か?」


制服姿の彼を確認するようにもう一度眺めて、
その相手は乱暴に問うてきた。
我に返って、次郎は小さく頷いた。


「今日からここに転入することになって・・・あの、あなたは・・・」

「六氷だ。ここの教師をしてる」

フンと鼻をならして、彼・・・六氷は興味なさげに言った。
そしてまたも興味などなさそうに「オマエ、名前は?」と尋ねてくる。



「あ・・・草野です。草野、次郎です」

「草野・・・あぁ、オマエが」


何かを思い出すように六氷は一瞬視線を泳がせた。
確か、学校側には両親の話は伝わっているはず。



反射的に次郎は目を逸らした。

またいつものように、同情とか哀れみの眼差しを向けられると思ったからだ。
けれど、尚も次郎を見つめる彼の目にそんな色は見えない。
それは久し振りの、“対等な眼差し”だった。



「話は聞いてる。オレのクラスに入るそうだな」
次郎は一瞬きょとんと首を傾げた。
この人の耳に僕の両親の話は伝わっていないのだろうかと。



両親の話を聞いた誰もが・・・それは大人でも友人でも、
みんな一様に特別な眼差しを向けた。
同情というオブラートに包んだ、奇異の眼差しを。
人は誰もが特別を嫌うのだ。
それがどんなもので、どんな理由であったにせよ。
どう接していいか分からないものを、
自身の平穏を壊そうとするものを、
誰もが無意識に疎外しようとする。
“普通”の世界に住んでいたときは、気づかなかった。



なのに、今彼の前に立つ男の目にそんな感情は見えず、
次郎は安堵に息をつく。
そんな彼に、六氷は肩をすくめた。


「オレは行くが、オマエはどうするんだ?」
「・・・え?」
「分からねぇヤツだな。教室まで連れて行ってやろうかって言ってんだよ」


自身に対する六氷の反応にも驚いたが、その言葉の横柄さにも衝撃を受ける。
こんな話し方をする教師は初めてだった。
けれど驚きながらも無意識に、この人は信用できると思った。
なんとなく、だけれど。


「は、はい。お願いします」

「・・・ついて来い、案内くらいはしてやる」


そう言って六氷は校舎へ向かって歩き出した。
次郎は慌ててその背を追いかける。





濃すぎる空が、ついにその重さに耐えられなくなったかのように、
冷たいしずくを静かに落とし始める。
次郎は早足で歩く六氷を見失わぬよう、
半ば駆け足気味になりながらその後を追った。











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そうして一ヶ月が経った。
まるで一年にも等しく思えるような、
目まぐるしく何もかも新鮮な一ヶ月だった。



僕みたいに学期途中で転校してくる生徒は珍しいらしい。
最初の頃は廊下でいろんな人に声をかけられたりした。
六氷先生は相変わらずのぶっきらぼうで、
けれどその容姿と性格に密かな人気があるのを知ったりもした。


六氷先生以外の先生は腫れ物をさわるように僕に接して、
それはとてもいたたまれなく。
先日などは教頭先生が六氷先生に、
『草野くんにはもう少し・・・気を遣ってやれないのかね』なんて言ってるのを聞いてしまって、
胸が痛むのを感じた。



毎日の通学路にも慣れた。
ようやくクラスのみんなの名前も覚えた。
友だちとはまだ呼べなくても、仲良くできる人間もできた。




それなのに、僕自身はまだこの生活に馴染めないでいる。










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夕暮れの教室。
緋色のベールが広がるようにその手を伸ばし、
次郎しかいないほぼ無人の室内を紅の世界に染めかえる。



今日は日直で、教室の後片付けをしなければならず、
一人教室に残っていた。
次郎と、もう一人いたが、
その相手は塾があるとかでさっさと先に帰ってしまい、
次郎はひとり黙々と黒板を拭いていた。



昼間と夕暮れの教室は、まるで別の場所のよう。
元より誰もいない、
ほんとうは自分だけしかここに存在していないのではないかと思って、
次郎はふと笑った。


一人は安心する。
物音もしない声も聞こえない。
淋しさは拭えないけれど。




と、ガラリと扉が開いて六氷が顔を覗かせた。
背伸びをして黒板を拭く次郎の姿に、
「まだいたのか」と言って教室を見渡した。



「僕日直で・・・スミマセン、もうすぐ帰りますので」
「日直って、オマエ一人じゃねぇだろ、もう一人はどうした?」
「塾・・・らしいです。」



六氷はチッと舌打ちする。
「押しつけて逃げやがったな・・・」そう言って。
だが次郎はブンブンと首を振って否定した。
「そんなんじゃないです。僕が帰っていいって、言ったから」



「フン。お人よしだな、テメェは」


曖昧に笑って黒板を拭く次郎をしばらく見つめていた六氷は、
唐突に彼の手から黒板消しを奪い取った。


「貸してみろ」
そのまま次郎の手の届かないところも手早くキレイに拭いていく。
次郎はぽかんとその顔を見つめた。
夕日に染められた横顔。
いつものように不機嫌そうな表情に彼は少し笑った。
そんな次郎を横目で見て六氷は黒板消しを置いて手を払う。



「馴染めねぇか、このクラス」
突然の言葉に一瞬だけ視線を彷徨わせて、
次郎は俯いた。
「そんなことは・・・ないです」
「テメェで壁作んなよ。日直だって、二人より一人の方が気が楽、とか思ったんだろ?」


なんで分かるんだろう。
図星を指摘されて、次郎は短く息をつく。


「まぁ、いい。早く慣れろ」
「・・・・・・はい」



「もう帰っていいぞ。悪ぃな、遅くなって」
日直日誌を次郎の手から受け取りながら言う。
いいえ、と次郎は肩をすくめた。



「どうせ帰っても、一人ですから」




教室を出て行きかける六氷の足が止まった。
日誌を持つ右手の指先が、迷うようにその表紙を叩く。




どうせ一人。
そう言った言葉は真実だけれど、
口に出してしまったらその孤独は更に際立ってしまった。


僕はバカだ。
なんて弱いんだろうと思う。


同情が嫌だと言いながら、
すがるようにこんなセリフを吐いてしまう。
僕は、差し伸べられる手を待っているのだろうか。




六氷の溜息が間近で聞こえて、次郎は顔をあげた。

手にした日誌で次郎の頭を軽く叩きながら、
彼は「ウチ、来るか?」と一言、ボソリと呟く。
一瞬何を言われたのだか理解できかねて、
「へ?」と間抜けな声を出してしまう。



「オレも一人だ。夕飯くらいは食わせてやれるが?」
日誌が邪魔をして、六氷の顔は見えない。
でもその声で、彼が少し困っているのが分かった。


ぶっきらぼうなくせに、優しい。
そんな不器用さにふれて、それに少し戸惑いながら、
またも沈みかけた心が、温まるのを感じる。



「迷惑・・・じゃないですか?」

問いに、即答される。
「バカが。迷惑だったら誘うかよ」




乱暴な言葉とは裏腹に優しい声。
どうしてだか、心臓が跳ねた。
同時に込み上げる、味わった事のない想いに動揺する。



次郎は自身を落着かせるように、
二・三度深呼吸を繰り返した。
繰り返してそれから、遠慮がちに笑って、頷いた。















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