深く、昏い海を漂っていた。


生の気配は微塵も無く、


しいんと静まり返った闇の中で、


当ても無くさ迷い歩いていた。


自分は何処へ向かえば良いのだろう。


自分は何処に向かおうとしていたのだろう。


自分は何処から来たのだろう。


疑問は渦巻くばかりで、


それでも揺れる水面は音一つ立てる事無く。


それは静寂の世界だった。


俺はそこを独りで歩いていた。


すうと足を動かすも、


行く当てさえなければそれに意味すら見出だせなかった。


自分は誰なのだろう。


何故此所にいるのだろう。


やがて思考も剥離する。


一つの理由さえ存在しない世界。


そこで俺は独りきりだった。


身体の半分を水に浸りながら、


ただひたすら、


影の霧に覆われた中を前に進んで行く。










幾許ほど歩いただろう。


何の音も存在しない世界に、


突然軽やかな声が微かに聞こえた。


それは酷く懐かしく。


俺はそれを求めるかのように、


両手で水を掻き分け前へ前へと進んで行った。


先程まであんなに昏かった眼前に、


切れ間が出来て眩いばかりの光が差し込んでいた。


そこに俺の求めていたものがある。


理由などない確信が湧いた。


その光に近付けば近付く程、


ちゃぷちゃぷと水の波打つ音が立ち、


声は確実に、優しく、しかし強く響いて行った。


歩けば歩く程、


光はゆっくりと大きなものになっていく。


もうすぐだ。


もうすぐだ。


そう自分に言い聞かせて、


じゃぶじゃぶと荒々しく音を立てながら歩いて行く。


やがて光の許に辿り着いた俺は、


そこに一人の姿を見つけた。


金色の光に包まれたそいつは、


それとよく似た蒲公英色の髪を靡かせ、


蜜のような眸でじっと俺を眺めていた。


歌声が止むと、ふと、そいつが笑う。


それはあまりにも柔らかく、


それが世界の全てであるような笑み。


そいつがそっと両腕を広げる。


その腕に包まれたい、と思った。


そっと水面から這い上がり、


そいつの伸ばされた腕を取る。


俺の小さな手でも掴めてしまうほどか細い腕。


愛しい。


ただその一心で腕から手に己の手を滑らせ、指を絡ませる。


眼を合わせると、蜜の眸は細められ、


絡めた指に小さな口付けを落とした。


俺は、こいつを知っていた。


ずっと前から。


ずっと、待ち焦がれていたんだ。





「ロー…」





声を掛けようとした瞬間、


意識はいきなり暗転した。










ぱちり、と眼を覚ます。

胡乱な眼で周囲を探れば、そこは昏い海でも光の繭でもなく、

見慣れたいつもの事務所だった。

何にも変わりやしない。

今のは、夢か?

手を握っては開いて、抓ってもみる。

間違いないこの現実感は、今見たものが夢だと言う事を証明していた。

何だったんだ、今のはと考えながら頭に右手を頭に添え、

ごしごしと左手で寝ぼけた眼を擦る。

その時、夢で聞いたのと同じ声が、キッチンの方から聞こえてきた。

それに伴って、食欲をそそる料理の良い匂い。

のっそりと寝沈んでいたベッドを降りると、

ぺたぺたとその声のする方へ歩いていく。

そこにはいつもと変わりなく、

ピンクと白の、男にしては恥ずかしくないかと思ってしまうようなエプロンを身に付け、

ことことと鍋を火にかけながら、明るく澄んだ声で鼻歌を歌い、

とんとんと規則正しいリズムで野菜を刻んでいく草野の姿があった。

やがて背後に立つ六氷の存在に気付いた草野は、

歌声を止めると、手にしていた包丁を置き、エプロンで手を拭いながら、

おはよう!と眩しい笑顔で六氷に目覚めの挨拶をした。

止んでしまった歌声を、六氷は何だか惜しいと思った。

「ムヒョ、5日前の依頼で魔法律を3つも続けて使ったから、

いつもよりちょっと起きてくるの遅かったね。でも…起きてくれて良かった。

もしかしたらこのまま起きなかったらどうしようとか、思ったんだ。」

明るい笑顔をほんの少し悲しげに歪めると、

ごめん、弱音吐いちゃいけないね、忘れて忘れてーと腕をぶんぶん振る。

しかし六氷が、その腕を取った。

「え、何?」

驚いた顔、まんまるく見開いた眼。

そんな草野にお構いなしに、六氷は夢で見たように、

手と手を合わせ、指を絡める。

「そんな顔をするな。」

「ムヒョ…?」

「…闇から光へ導いてくれたのは、お前じゃないか。」

ぐい、と腕を引っ張り、草野の身体を目線が合う位置まで跪かせると、

徐にその身体を抱きしめた。

「ムヒョ……。」

最初は戸惑っていた草野も、やがておずおずとその腕を六氷の背に回す。

この存在が、俺をあの音の無い闇から引きずり出してくれた。

この存在がいなければ、俺は戻ってくる事も無かったかもしれないし、

戻って来ようとも思わなかったかもしれない。

首筋に顔を埋めると、甘く柔らかい匂いが鼻腔を擽った。

頭を、背を撫で、戻って来れて良かったと切に思う。

あんな昏い海は、もう真っ平だ。

「ロージー。」

「なあに、ムヒョ。」

「…有難う。」

ぴく、と身体が動いて、六氷には草野が今どんな顔をしているか容易に想像できた。

ヒッヒ、と笑う。

こんな言葉、今の今まで一度も言った事など無かった。

それでも今日だけは。

こんなたった五文字の言葉だけでお前が喜ぶのならば、

俺はお前に想いのままそれを捧げよう。





「有難う。」














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大好きなお友だち、海羽ちゃんから頂きました。
海羽ちゃんの文から溢れてくる優しさがたまらなく好きです。