影踏み



















きみの影を踏んだ。




柔らかな冬の日差しの中、うっすらと小さな、きみの影を踏んだ。
影は涙を落とした水面のようにゆらゆらと揺れる。


捕まえるように踏みつけたきみの影は、すっと僕の足元から逃げていった。






僕はもう、きみを捕まえる術を知らない。























冬にしては窓から差し込む陽光がちりちりと肌を刺す日だった。
ぼんやりと幼い脚を机上に投げ出して行儀悪く椅子に腰掛けるきみは、僕の方を見ていない。
眩しそうに瞳を眇めて窓の外を眺め、その唇は何かを言いかけるように薄く開いている。
さらさらとした光の粒がきみを温かく包んでいた。



僕はソファに座っている。
黙って膝に雑誌を広げて、けれど視線はその誌面を追ってはいない。
ただきみを見つめている。






僕はきみを見つめて、きみは外を見つめて、僕らはすれ違う。
こんな瞬間にさえ、僕らは決して交わることはないのだと、思い知らされるようだ。
点と点、線は線。
円になることがない僕らは、いつも一人でどこかを巡っている。










日差しが強い。
あぁ、そういえば今年は、記録的な暖冬だとニュースでやっていた。
夏のように肌を焼くほどの強さはないが、静かで穏やかな光は内側を焼き切りそう。
神経が…神経が焼き切れてしまいそう。




だから僕は、ため息を噛み殺した。
























「時間だ」





思い出したように呟いたきみが黙って椅子から降りる。
椅子がガタリと硬い音を室内に響かせた。
魔法律書を手に執行服を羽織ったきみは、昏い眼差しで僕を見る。


いや、違う。
僕を通りこして、遠くを見ているのだ。





だって僕らが交差することはない。








僕は膝に乗せていた雑誌を馬鹿みたいに丁寧に、ソファの上に置いて立ち上がった。
自然と見下ろすことになったきみを見つめる僕の目も、本当はきみを見ていないに違いない。





だって僕らはもう交差することはないから。























玄関で靴を履くきみの後姿。
もそもそと動くその姿は初めて見た時と変わっていない。
きみが靴を履き終わるのを、後ろに立って待つ僕も変わらない。



銀色のドアノブに手をかけたきみが一瞬こっちを振り向いた。
僕はいつものように、微笑って手を振る。
「行ってらっしゃい」


そんな瞬間ですら、僕らは何も交わらない。














きみがドアを開けると、外から僅かな光が差し込んできて僕らを照らした。
すっと細くしっかりとした光がきみの足元に影を作った。


きみに気づかれないよう、僕はその影を踏んでみた。
なんとなくね、踏んだらきみが立ち止まってくれるような気がした。





振り返ってくれるような気がした。




















いつも、まるで後悔のように思い出すあの日。
ムヒョの執行のサポートをしていた僕の前に突如現れた白い姿は、僕に呪いをかけていった。
『君がもう一度僕に見(まみ)えたなら、その時が君の死ぬ時だ』
ふふ、とこの上なく嬉しそうに笑った、寂しいほど白い姿のあの人。




その言葉が真実なのか否かは分からない。
僕の体に何かしらの刻印が残ったわけでも、体調に変化を覚えたわけでも…何でもないから。


それでもムヒョは、あの日から僕をどこにも連れて行こうとしなくなった。












僕はそんなことを、かけらも望んではいないというのに。

























ドアが閉まった。
影は逃げていった。
きみは振り返らなかった。



僕は玄関に立ち尽くす。
ただただ黙って立ち尽くす。






白い床。
黒い影。
交わらない視線。
離れた僕ら。

















壁にもたれかかって、そのまま僕は座り込んだ。
閉じた瞼がひどく熱い。
思いがけず情けない声が唇から零れて、一人きりの事務所に響いて消えた。
しゃくりあげる自分の声がみっともなくて煩わしい。







あとどれだけ、こうやって泣いたら心は楽になるの?
あとどれだけ、心を殺したなら僕は楽になれるの?











「ムヒョぉ…」






想いは重ならない。
想いは交わらない。
きみは振り向かない。























踏んだ影が、妙に脳裏に焼きついていた。
きみの後姿のような黒い影。





あぁ、そうだ。
僕は影じゃなくて、きみを…。














きみを、抱きしめていればよかった。