Blurry Eyes. まどろみに呼ばれて、僕は幸福な夢をみる。 白い白い光に溢れる中で、アナタはいつも僕の望むものをくれる。 青い空を舞うための純白のツバサ。 太陽の輝きをその一粒一粒に照らし出す、金砂の海。 彩やかな魚群が朱色の珊瑚礁で戯れる、ラピスブルーの世界。 眼下にそれを映し出すラファエルブルーの空は、名に恥じず透き通る。 そしていつも、アリスブルーの神の吐息が僕らを包んでいた。 霞む霞むまどろみのその先でアナタは確かに与えてくれた。 玻璃の繊細さと、確かな瑠璃の鮮やかさを以って。 ---------------------------------------------- 『どうしたの』 問いではなく確かめるようなその言葉に僕は振り向いて微笑った。 返事の前にばさりと僅かにツバサを震わせると、純白の羽根が空を舞った。 『なんでもないの。ただ…ただ、とってもキレイだから』 僕の見つめるその先にはシャイニーイエローの海。 一迅風が通り抜けるたびに、それはそよそよと優しく揺れた。 どこまで見渡しても、地平から溢れても尚遠く続く景色だった。 『ヒマワリは君の髪の色でしょう?だから一度、この景色を見せたかった。』 ふふ、と静かにわらったアナタの頬に僕はそっと指を差し伸べた。 ひやりとした温度と人の柔らかさ。 『ありがとう。』 僕もわらってふと気がついた。 きゅ、と唇を噛む。 もう、時間だ。 『そんな顔、しないで。』 またすぐ会えるよ。 言外に僕を束の間安心させる言葉を呟いて、すぅっとアナタの姿が薄れていく。 アナタの指が優しく僕の額をつついた。 『現実に、お戻り。』 薄れていくアナタの体を通して見たヒマワリ畑は、さっきよりもずっと鮮やかに見えた。 ---------------------------------------------- 「―……ッは…」 二重、三重にブレてそれから一つに定まっていく視界。 見慣れたようで或いは見知らぬような、真っ白の天井を見止めて僕は数度荒く吐息した。 ベッド脇の窓からは遮光カーテンの隙間をぬって、白い朝の光が差し込んでくる。 それは部屋に舞う僅かな埃を際立たせて、室内に一筋のラインを引いた。 枕に沈めたままの頭をゆっくりと振って、僕は改めて視界に映るものを確認した。 「僕の、部屋…」 分かっていたことだ、束の間の夢から覚めたことは。 僕はシーツを指が痛くなるくらい強く握りしめて、それから喉奥で小さく呻いた。 アイタイ―――…。 先ほどまで確かに傍らにいた存在を求めて、僕の頬を温かい滴が流れて落ちた。 今もう一度眠りに落ちたとて、かの人には会えないだろう。 焦がれて焦がれて、この胸はもう焼き切れそうだというのに。 あの人はあの人の許す時にしか、僕にツバサをくれはしない。 ある時理由を聞いたら、あの人はいつものように静かに微笑ってかぶりを振った。 『眠り姫はいつまでも眠っていてはいけないから―――…』 そう一言、呟いて。 それ以上、何度聞いても答えてくれようとはしなかった。 「会いたいよ、会いたい…エンチューさん…。」 ぽろり、ぽろりと涙は零れて、それは新たな眠りを誘った。 会えないことは分かっていた、それでも僕は、アナタに会いたかった。 それがただの、夢だったとしても。 ---------------------------------------------- …キィ―…ン…―――。 一瞬の空間を歪める音に、ムヒョは寝転がっていたソファから体を起こした。 聞きなれた音ではあるが、いつまでたっても空間魔法陣の出現する時の空気の裂ける音は好きになれなかった。 わざわざ顔を向けずとも、誰が現れたのかは分かる。 この仕事を始めてから気配には人一倍敏感になった。 ムヒョは体を起こしたそのままの姿勢で、低く唸った。 「何の用だ?」 それはまるで獲物に飢えた狼のような気迫で、魔法陣から現れた男はひょいと肩を竦めてみせた。 彼は足音を立てずに近づいてくると、テーブルの上に菓子折りを置いて笑った。 「いやぁ…最近妙なウワサを耳にするようになってさ」 軽い口調ながら、その瞳は真剣だ。 それに気づいているのか否か、ムヒョはハッと吐き捨てるように笑う。 「ご丁寧に暑中見舞いってワケじゃねェってことか、ヨイチ」 その言葉にすぅっと目を細めると、ヨイチは小さく呟いた。 「息苦しいくらいの…禁魔法律の気配、だな」 ---------------------------------------------- 気配の元凶である部屋のドアを見やってから、ヨイチは視線をテーブル上に移した。 テーブルにはカップ麺の容器や清涼飲料のペットボトル、空缶…読みかけの雑誌に飲みかけのコーヒーが入ったカップ…と、様々なものが散乱していた。 床には脱ぎっぱなしの服、魔法律関連の書籍で足の踏み場もないほどだ。 「とても…一ヶ月前と同じ事務所とは思えないな」 眉間を親指と人差し指で揉むようにしながら、ヨイチは更に難しい顔をした。 こうなった原因は明らかだ。 「…ロージーは、どうしてる?」 ムヒョはヒッヒとわらって「眠り姫さ」と短く言った。 そうしてゆらりと手を伸ばし、奥の扉を指差す。 ロージーの私室だ。 「六氷事務所の助手が眠ったまま目覚めない、ってウワサはマジだったんだな…」 そう言ったヨイチの言葉に、ムヒョは短く否定の言葉を放つ。 「眠りっきりってワケじゃねェ。…時折目は覚ましてるさ」 「どういうことだ?」 「また、寝ちまうんだよ」 再び疑問の言葉を発そうとしたヨイチを片手を上げて黙らせると、ムヒョはロージーの私室の前に立った。 手のひらでその表面を静かに撫でる。 これ以上なく優しく、そしてどこか切ないような表情で。 「アイツ自身が眠りを欲している」 そうしてその先の、エンチューとの邂逅を。 「エンチューとの邂逅、ってどういうことだよ!?」 案の定顔色を変えて詰め寄ってきた幼馴染に、ムヒョは「言葉そのままさ」と嘲笑った。 「アイツは眠りのその向こうで、エンチューと会っている」 「起こせば…」 言いかけたヨイチに首を振って見せて、 「さっきも言っただろうが。アイツ自身が、目覚めることを拒否している。すでに他者の介入を許さんほどにな」 ヨイチは一瞬唇を噛んで、数度何かを言いかけるように口を開いては閉じた。 かぶりを振るたびに揺れる肩までの長い黒髪を見つめながら、ムヒョの暗黒色の瞳は何の感情も灯さなかった。 だがヨイチにはムヒョを糾弾する言葉を発することができなかった 当然だ。 ムヒョの寝不足による充血した瞳、憔悴した表情、床に散乱した書籍の山は、全てロージーを救うためのものだと分かっていたから! ヨイチはムヒョの肩に縋るように膝をついた。 「情けねぇ、何もしてやれないのかよ、オレらは!」 薄暗い事務所に響いた声は、悲痛に割れていた。 ムヒョは尚も感情の伴わない声でポツリと呟いた。 「……あるには、あるさ。」 ---------------------------------------------- ムヒョは魔法律関連書の一冊を手にとって広げると、折り目のついたあるページを開いて見せた。 それは古代書の部類に属すのだろうか、所々に不可解な文字が躍っている。 ヨイチは器用に片目だけを眇めて、指で小さな文字を辿った。 「…ッと、くそ、読めねぇ!MLSでちゃんとやっとくんだった…!」 古代文字は苦手だと授業をサボりがちだったヨイチは今更それを悔いるように、短く舌打ちをした。 それを意に介せず、ムヒョはある一節を指先でトントンと叩いて解説した。 「ここだ…ッつってもオメェには読めねェだろうが…、眠りに囚われたものを開放するには二つの手段があると記述してある」 そう言いながら、ムヒョの眉間の皺はより深くなる。 「二つ?」 「あぁ、そうだ。まずは…、まぁこれは当然だが、囚えている張本人を始末すること…この場合はエンチューだな。そしてもう一つが…」 そこまで言ってムヒョは彼らしくもなく、言い淀んだ。 まるで体内に重りを抱えているように、それを吐き出せないもどかしさに苦しむような表情で。 「もう一つは…何だよ」 ヨイチはその先に続く言葉にどこか脅えを感じているように、声を震わせた。 「もう一つは…魔法律を使って無理矢理肉体を目覚めさせる方法だ」 だがその場合、肉体に魂は伴わない―――…。 ---------------------------------------------- あおい、あおい、そらがひろがっていた。 ふわふわとただ漂いながら、僕は右手をぎゅっと握った。 手のひらに、指先に感じる、アナタの体温。 とくん、とくん、とくん。 アナタの鼓動をもっと近くで感じていたくて、その胸に頬を寄せた。 体で感じる、その鼓動。 あおいあおい、空にたゆたいながら、視界を埋め尽くすのはアナタの白。 ねぇ、僕、幸せだよ。 だから、ねぇ、離さないで、片時も。 見上げたアナタの眼差しは、いつもと変わらぬ優しい色。 長い睫が薄いガラスブルーの瞳を縁取るようにして、とてもキレイだった。 最近、アナタは僕を長い時間傍においてくれるようになった。 僕はそれが嬉しくて。 ただの夢かもしれない、幻想なのかもしれない。 いつ壊れるともしれない束の間の温かさなのかもしれない。 そう思えばこそ、この時間が何より愛おしかった。 『ずっと、一緒にいられますか?』 ぽつりと何気なく呟いた言葉に、アナタは微笑むように優しく、瞳を眇めた。 『どうだろうね?…でも僕は…ずっと、君が好きだよ、眠り姫。』 アナタはいつも僕のことを眠り姫と呼ぶ。 そう呼んで慈しむ。 それはキライではなかったけれど、アナタは決して僕をロージーと呼ぼうとはしなかった。 その時がくるまで、ずっと。 ---------------------------------------------- 「魂は伴わない、って…、それって死んでるのと変わらないだろ…!」 本当に方法はそれだけなのかよ、とヨイチはバン!と床に拳を叩きつけた。 「どの道…このまま放置すれば、ほどなくアイツの体は禁魔法律に汚染されてしまうだろうがな」 それだけは、避けてェんだよ。 たとえ。 たとえ、肉体だけの目覚めだとしても。 たとえ、救えなかった自身に、永遠なる後悔を覚えることになろうとも。 ---------------------------------------------- 『やぁ、キミと意見が合うなんて珍しいね、ムヒョ?』 静寂を突如破って現れた声と、存在に、ヨイチは目を見張った。 床から一メートルほど浮いた位置で微笑う、かつて幼馴染だった敵は、害意のかけらも見せずに首を傾げた。 ムヒョはニヤリと笑うと、胡坐をかいたままの姿勢で頭上を見上げた。 片手にはいつの間にか赤い装丁の魔法律書がある。 「何の用だ?元凶のテメェが」 おや、というようにエンチューは大きな瞳を更に見開いた。 『分からない?僕も…あの子が魂のない、ただの傀儡になってしまうのは避けたいんだよ』 そう言って指を鳴らすと、ロージーの部屋の扉が音もなく開いた。 ふらり、ふらりとロージーが歩いてくる。 その体は眠ったままだ。 『本当は…ずっと傍におきたいのだけれど、それではあの子の魂が行き場を失くしてしまうから…』 哀しげなエンチューの表情に、ムヒョは片眉を上げた。 「テメェ…まさか。」 『その、まさかだよ。最初はキミからあの子を奪って、キミを苦しめるつもりだったのだけれど』 ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこのことだよね。 ふわふわと宙に浮いたままのエンチューは、ムヒョとヨイチの顔を代わる代わるに見つめ、『だから…』と言った。 『だから、開放してあげる。』 「本当か、エンチュー!?」 信じられないというように、ぱっと顔を輝かせたヨイチに頷いて見せて、それから彼はムヒョに微笑いかけた。 『目覚めさせてあげる。目覚めの鍵は僕が持ってる。』 「どうやら…本気らしいな?」 勿論、と呟いてエンチューはムヒョの魔法律書を指差した。 『でも、僕との記憶は、キミが魔法律で消してあげて。』 最後の最後まで、あの子に禁魔法律は使いたくないんだ。 そう言ったエンチューの顔は、禁魔法律の使用者とは思えないほどに、優しく、愛情に溢れていた。 『さぁ、おいで。』 エンチューが手を差し伸べると、ロージーの右手がのろのろと上がってそれを掴んだ。 柔らかな肌の感触に、エンチューは頬を緩めて微笑した。 ---------------------------------------------- あおい、あおい世界だった。 それ以外、二人きりの、永遠とも思われる世界だった。 『眠り姫。』 眠りの中で、それでもまどろんでいた僕は、その声にゆっくりと瞼を持ち上げた。 すぐ近くにアナタの微笑み。 いつもと同じ微笑み。 でもどこか寂しげに見えたのは、気のせいだろうか。 『君は、永遠はあると思う?』 ふいの問いに僕はきょと、と首を傾げた。 それから頷きで肯定して、ふわりと微笑う。 『アナタは?』 問うと、アナタはやっぱり寂しげにわらった。 『…あるといいね。』 僕は彼の背に回した腕にぎゅ、と力を込めた。 放さないように、離さないように。 『永遠は、あります…僕は、永遠にアナタが…』 大好きだから、という言葉と一緒に涙も零れて落ちた。 僕の背にも回されたアナタの腕にも力がこもって、耳元に吐息を感じた。 『僕も、だよ。…でももう……、お目覚めの時間だ、眠り姫。』 一瞬、何を言われたのか理解できず真っ白になった僕の耳に、最後の一言が届いて、解けた。 『愛してるよ、ロージー。』 ---------------------------------------------- ぱち、と目を開けると、すぐ目の前にはムヒョの顔があった。 そしてその横にはヨイチさんの姿が。 「…え、僕、どうして…」 何故かスッキリしない頭を数度振って、僕は体を起こした。 眩暈がして再び倒れそうになった体を、ムヒョが抱き寄せるようにして支えた。 「まだ、しばらく寝てろ、何も考えるな。」 「お前、ここ何日か高熱出して寝込んでたんだよ。」 何を言われているのかなかなか理解できずにいる僕に、ヨイチさんが笑顔で補足した。 でもその笑顔はどこか不自然だった、その時の僕は気づかなかったけれど。 「そう…そうなんだ、全然覚えてないや」 そうしてぽすんと再び枕に顔を埋める。 「それなら、もう少し寝ちゃうね。…おやすみ、ムヒョ。」 ---------------------------------------------- ゆっくりと、まどろみが、波のようにやってくる。 白い、白い闇だ。 どこか懐かしさを感じて、でも思い出すことのできないもどかしさに、僕は切なさで泣きそうになった。 何か、大切なものを、忘れているような気がする。 まどろみの中で、懸命に腕を伸ばして、それを掴む間際。 …――――さよなら。 泣きたくなるようなその声だけ残して、僕は永遠に、切なさの正体を見失った。 戻 |