遠景


















言葉になど、到底ならないと思った。













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見上げれば視界の全てを埋め尽くす深い藍色。
白銀や時に黄金にさえ見えるような小さな光の粒が、その藍を静かに彩っている。


瞬く無数の星々の中心に、真ん丸の輝き。
まるで全てを反射するような鏡のように、その白銀の器は光を溢し続けていた。



昼間の湿度の高い暑さを忘れさせるような涼風が、
坂道を登るように、木々を揺らして僕の背を押す。




逆らうようにふと立ち止まって、僕は天を仰いだ。












ふいに心臓の辺りから込み上げるものがある。
それは肺を圧迫するように静かに上へ上へと上がってきて、僕の呼吸を止めようとした。


まるで水から無理に引きずり出された魚のような不器用さで、
僕は喘ぐように空気を求める。



キレイな円形の銀を見上げて見つめたまま、僕はゆっくりと双眸を閉じた。




薄い瞼の皮膚を通して感じる、月光。





「……」




知らず、頬に感じた熱い滴に、僕は戸惑うように薄く瞼を持ち上げた。
すると目の端に溜まっていたそれもつと流れて落ちる。



生ぬるさを感じるそれは、一体なんだろう。


ただ無性に溢れて止まらない、これはなんだろう。



は、と僕は短く吐息をこぼした。





止まらない。
この感情は、何?











夜風がふわりと降りてきては包むように、カラダを撫でる。


柔らかい。
形は見えないけれど、それは存外に優しくて、僕は笑った。




あの人のようだと、思った。












ゆっくりと両手を掲げて、天高くの銀円をなぞるように、ふれた。
否、ふれられるはずがない。



それでも指先に温もりを感じた気がした。

















「眠れねェのか」




コツコツと踵が剥き出しのコンクリートを控えめに打つ音がして、
声を聞くまでもなく誰なのか分かる。


夜だからだろうか、いつもよりトーンを落とした声。
まるで直接心に届くようなその低音に、僕は安堵する。





振り向かぬままただただ一心に夜空を見上げる僕の肩を、
無言で抱き寄せて彼は僕の髪に頬を寄せた。


フローラルの香り。
そんなことを以前言われた。
唐突にそんなことを思い出して、僕はクスリと小さく笑う。



カラダの前に廻された彼の大きな手にふれて、僕は尚も空を見た。
耳元の彼の吐息がこそばゆい。






「泣いてたのか」




抱きしめてくる彼の腕に眠るようにカラダを預けていた僕の頬を、
彼の端整な指先がなぞった。





泣き虫の僕は、事あるごとに涙を落とす。
その理由が大きかろうが些末だろうが関係なく、僕の涙腺はどんなことにでさえその堰をきってしまう。


いつも一緒にいる彼は僕の涙を飽きるほど見ているだろう。
でも彼はただの一度として自分から涙の理由を聞いたことはない。



けれど僕が聞いてほしいと望むときは、ただ黙って耳を傾けてくれた。









僕はしばし言葉を探して、視線を迷わせる。
けれど見つけたかった言葉はどこかに隠れてしまって、僕は嘆息した。




ふと意識すると、背中に感じる体温と共に、彼の鼓動を感じる。
どくん、どくん、どくん、と。


まるで時を刻む時計のように、彼の体は命を刻んでいる。







生きてる。







当たり前のことをふいに認識して、僕はまたあの感覚を覚えた。
きゅ、と肺を締めつけるようにして込み上げる、あの熱い感覚。



その感覚に耐えるように、僕は彼の腕にしがみついて声を殺した。




熱い。

熱い。

瞼が、瞳が、眦が、頬が、熱くて、熱くて。




ようやく乾き始めた頬を、いくすじもの新たな熱が濡らす。
溢れて零れて流れて止まらないそれが、僕の全てを濡らしていく。






彼は何も言わない。
ただ僕の髪に頬を寄せたそのままで、何も言わない。

















好き。


大好き。



大好きだよ。









それ以上、もっともっと。


きっともっとそれ以上に、君が好き。





何度伝えても、熱は冷めることなく心から溢れて、水たまりのように溜まっていく。








伝えきれないの、そんな言葉だけじゃ。


足りないの。



足りないよ。













空の向こうの輝きに、それはとてもよく似ている。


ふれているようで、
届いているようで、
本当に近くにあるようで。




月からは見えているだろう、僕の姿が。
風は感じているだろう、この吐息を。



でも遠いあの天体に、僕の何かが届ききることなど決してない。
包んでくれる自然の息吹は、僕を浚ってまではいかないだろう。









似てる。



溢れて留まることをしらない彼へのこの想いは、この世界への思いに似てると思った。












きっと何万回呪文のように唱えたとて、この想いが渇くことはないだろう。
いとおしいほどの切なさが消えることもないだろう。







でも僕はこれからもきっと白銀に手を伸ばす。
言葉にならないものを両手いっぱいに抱えて、君へと捧げ続けるのだと、そんなことを、思った。