深海




















君がいなくなる、夢をみた。





目を覚ました僕は、頬に残る涙にふれる。
まだ、温かい。



涙は心をゆらりと包み込む、羊水のようなものだと思う。
流れたあと、心は剥き出しで空っぽのままだ。







心臓の少し上の辺り、肺のすぐ傍がツキツキと刺すように痛んだ。
心と心臓は違うのに、悲しい時に痛むのはいつもここ、この場所だ。





まるで誰もいない場所に永遠に取り残されてしまったような不安に、僕はまた心の中身を零す。
ぽたぽたと、頬を伝って、顎を伝って落ちたそれは、
薄暗がりで灰色に見えるシーツに小さな染みを生んでいく。








「っ…、ムヒョ…」


夢で失くしたひとの名を呼ぶ。
失くしてないことを確認するために呼んだその名は、
どうしてかもっと心を傾けさせ滴を溢れさせる。
















あのひとが死ぬ瞬間、世界はどうなるだろう。


あのひとが消えた世界は、僕の目にどう映るのだろう。


















僕は枕を抱きしめて、柔らかなその表面に顔を埋めて、それから鼻をすすって、
のろのろとベッドから降りた。




ずるずると枕を引きずって、彼が寝ているであろう隣の部屋へ向かう。


深夜の事務所は窓から差し込む月明かりだけが唯一の照明で、
机もソファも壁も彼の眠るベッドも青紫色に照らしていた。




ぺたりぺたりと裸足が床に張り付くような音。
床の冷たさだけを感じながら歩いて。







ベッドを覗き込むと安らかな寝息を立てて眠る彼の姿。
昨日魔法律を使ったばかりだ、僕が近くにいるだけで起きることはない。



淡く伸びる月明かりは彼の頬にも青白い影を落としている。
指でふれるとひやりと冷たい感触。




まるで、死んでるみたいだ。







頬に残ったままの幾筋もの涙は乾かず、少しだけ冷たい。
僕はそっと手を伸ばして、彼の体をゆさゆさと揺すった。



「起きて、起きて…起きて」




彼はやや眉間に皺を寄せたけれど、その目が開かれる気配はない。
尚も揺すり続ける。
呪文のように、「起きて」と何度も呟いて。





彼の瞼は閉じられたまま、ただ布団越しに揺する衣擦れのような音と、
彼の深い呼吸と、僕の声だけが事務所にこだまする。




蒼い光のなか。
頼りなく呼吸をする僕。





ふと手の動きを止めて、ぽつりと足元を見つめた。







まるで、僕らは深海の魚みたい。

光の射さぬ蒼い闇の中で静かにたゆたって。
先の見えない場所に目を凝らすように、生きて。








僕の手から枕が落ちる。
この闇で、君を見失ったら、もう二度と見つけられないような気がした。




















「起きて」

呟いて、彼のベッドのすぐ傍に置いてある魔法律書を手に取った。
僕がふれるのは許されない、それを。





そのままそれを振り上げて、眠り続ける彼の頭を叩いた。
さすがに痛みを覚えたのだろうか、僅かに瞼を開けた彼は、
僕が手にしているものに気づくと、ハッとしたように目を見開いた。




「テメェ、何してやがる…!」


取り返そうと反射的に伸ばされた腕を、一歩退いて僕は頭を振った。



「ロージー、オイ、分かってやってんのか…!」





もちろん、分かっている。
これをこのまま持ち続けていれば、あと一分後に爆発する。
爆発の規模はどれくらいか分からないけれど、
それでも秘密を守る為の爆発だというのなら、僕の命くらいは簡単に奪い去ってしまうかもしれない。




めずらしく慌てるムヒョとは正反対に、僕はひどく冷静だった。
僕には、僕の死以上に恐れることがある。





「君は僕より先にいなくなる?」


彼は尚も奪い返そうと腕を伸ばしてくる。
「んなこと言ってる場合じゃねェだろ…!」






僕は、本を両腕でしっかりと抱えた。
本からは白く霞んだ煙が上がり始めている。



1分まで、あと何十秒だろう。





「君は、僕より先にいなくなる?」







彼はじれったそうにして、それでも諦めたのか僕の眼をじっと見据えた。
「テメェより先にオレが死ぬなんてありえねぇだろ、実力考えろ」




彼の答えに、僕は小さく首を振った。
「嘘。君はいつだって無理をする。君は、君が死んだあとのことなんて、何も考えてないでしょ?」







いつだって、我が身よりも執行を優先させる彼。
霊の目前へ無防備な体を晒すとき君は、何を考えてる?




ほんのカケラでも、僕のことを考えてくれている?







「君がいなくなったあと、僕はどうすればいいのさ」








魔法律書の角がチリチリと焼けるような音を立てる。
白い靄は、僕を追い詰めるように囲う。





「君を失くす世界を知るくらいなら、僕はもう、何も見たくない」



吐き気がするほどに胸が痛んで、僕は俯いた。










「…え」



体を何かが強く押す。
僕は尻餅をつくような形で後ろに転がって、起き上がった時に本は腕から消えていた。




「カスが…!!」
怒気も露わな声に顔を上げると、彼がいつもの無表情な顔で立っていた。
否、目を覗きこむと、その奥で揺れる焔が見える。
彼の手には尚も煙を上げ続ける魔法律書が。






「ム、ヒョ…」
ピシッと頬が鳴って、彼に叩かれたことを知る。




「勝手なこと言ってんじゃねェよ」






月明かりの中でゆらりと立ち尽くす彼は、やっぱり深海魚みたいだ。
そんな場合じゃないのに、僕にはそれが場違いには思えなかった。




深海魚は昏い闇が広がる海の底でも、生きていくことができる。
彼が深海魚なら、僕はきっと深海に迷い込んだちっぽけな魚だ。








「オレが、テメェを置いて、逝くと?」



膝をついた僕と、立ち尽くす彼。
まるでそれは断罪の瞬間そのものだ。








「君が見えなくなる夢をみたんだもの」





真っ暗で真っ白で、真っ青で、何も見えなくなった。
君がいない場所は、僕に何も残さなかった。




絶望すらも。










「ねぇ、ムヒョ?君は断言できる?僕より生きるって」



心は空っぽなはず。
それなのに、今頬を伝うこれは一体なんだろう。






「さぁ、どうだろうな」





彼の指が、僕の心を掬う。
彼という唯一の存在が、唯一の僕にふれる瞬間、
失くしてしまった夢での君ばかりがどうしてか思い出される。












愚かなのは分かっている。
それでも僕は願わずにいられなかった。




離れないで。
触れ合ったこのままで、どうかそのまま離れないでいて。




















君がいなくなる夢を見る。





夢はただの夢で、御伽噺のようなものだと誰かが言っていたのに、
僕はいつも、溶け出すように流れ出るこの心を温める術を、知らないでいる。























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■ムヒョロジ祭さまに参加させて頂いた際の作品第三弾。
お題「夢なんてさ、御伽噺なんだよ。」でした。


願えば願うほど届かなければ、
それを知るほどにただ捉えどころのない感情に囚われる。