kissまでの距離
















その日の彼はどこか不機嫌で。
だから僕は、さわらぬ神に祟りなしと言わんばかりに、
あまり彼の近くに寄らないようにしていたんだ。



だってそんな状態の彼に迂闊に近づいて散々な目にあったこと、
今までに何度もあったから。






今も彼はソファのお気に入りの場所に座って、
イライラと足を揺すっている。



貧乏揺すりなんかしたら脚の形が悪くなるよと何度も言っているのに、
それは全く効果がないみたい。
ただでさえムヒョはこれから成長しようって時なのに、
あんな風に脚を組んだりとか、揺すったりとか、膝に負担がかかっちゃうよ。
今読んでる雑誌も、あんなに目を近づけちゃって…。
視力が落ちたら、と思いながら眼鏡姿の彼を想像する。




あ…、結構いいかも。
なんて思って、ダメダメと首を振る。





ただでさえ魔法律家なんて危ない仕事やってて体壊しやすいんだから、
それ以外の日常生活で体調に支障をきたすなんてそんなの助手として看過できないよ。




それでも今の状態の彼に声をかけるのは、やっぱり気が引ける。
どうしようかな。
やっぱり言った方がいいのかなぁ。
でもな、でもなと、思考を堂々巡りさせる。







洗濯物を干したり、取り入れたり、たたんだり…
家事をこなしながら横目でチラチラと何度もムヒョを見る。
僕が言わなくてもその内やめるかなとか思うのだけれど、
一向にその気配は見えなくて。





一時間くらいそんな状態が続いて、ようやく決意する。
やっぱり、言おう。
だって僕はムヒョの助手なんだもの。
執行人の体調管理もできないなんて、助手失格だよね…!



ずんずんと勇ましく彼に向かって歩み寄る。
彼の正面に立って見下ろすと、その時になってやっと僕の存在に気づいたようで、
無言で顔を上げた。
こ…怖い…。
見上げてくる眼差しからは彼の苛立ちがダイレクトに伝わってきて、
今更ながら後悔する。





でもここまで来たらもう引き下がれない。
僕は大きく息を吸い込んだ。



「む、ムヒョ…!」    「おい、ロージー」




な、何と言うタイミングの悪さだろう、これは。
ムヒョの低い声と重なった、僕の上ずった声。



怒られる…!これは間違いなく怒られる…!
そう思って身をすくめた僕に、けれど彼はその気配を見せようとしない。





「何だ?テメェから言ってみろ」



雷は落ちなかったものの、それでも苛々を含んだ声のままムヒョは続きを催促する。
けれど僕は酸素の足りない金魚のように口をパクパクとさせたまま、
次の言葉を出せないでいる。






「ムヒョから…言って」


ようやく吐き出せた言葉に、彼はやはり露骨に嫌そうな顔をした。
心の中でごめんなさいと呟いて、彼の言葉を待つ。


すると彼にしては珍しく、少々迷うように頬杖をついて視線を彷徨わせた。


「ムヒョ?」




そうして何気なく覗き込んだ、彼が読みかけの雑誌。
…あれ?
僕は違和感に気づいた。
僕が見ているのは逆側からなのに、雑誌はこちらを見ている。
要するにムヒョは本を逆さにしたまま持っていたのだ。
その行動の意味が理解できなくて、ぽかんとする僕。





「もうガマンできねぇ」



と、唐突に立ち上がるムヒョ。
それもなぜかソファの上に。
何、してるの、と思う間もなく腕を引かれる。
もともと安定感の悪い僕は、すぐ膝を曲げてしまい、
彼の視線が正面で僕のそれとぶつかった。
同時に彼が有無を言わさず僕の頭を抱え込む。
理解する間もなく、唇に感じる温かいもの。
ムヒョの唇だと思う頃には、もうそれは離れていたけれど。





「ム…ヒョ?」




何だか変。


こうして唇を重ねるのは初めてじゃないけど、今のキスはいつものと違う。
一瞬だったけれど、まるで噛み付くようなキス。
彼のキスはいつも気紛れで、ふれたと思ったら余韻も残さずに離れて、
気のせいだったのかなとか思っちゃうくらいに、ソフトなものだから。




恐る恐る視線をあげると、彼は苛立ちも顕な顔をしている。
どうしよ…、何でこんなに怒ってるんだろ…。
現状を理解できなくて、泣きそうになってしまう。
ムヒョが自分の思いをうまく伝えられない人だって言うのは分かっているけど、
時折あるこんな気まずい沈黙に、彼の心が読めたらいいのにとか考えたりもする。
例え読めたとしても、僕なんかに簡単に理解できるほど、
彼の心は単純にできていやしないだろうけど。






「なんでオレがキスの度にこんな苦労しなきゃなんねぇんだ」


「へ?」



ソファの上に仁王立ちの彼はますますご立腹の様子だった。
なのでやたらと聞き返すのも恐ろしく、自分の中で今の言葉を分析してみる。



苦労…苦労ってなんのことかな、と思って、ふと思い当たる一点。
ムヒョと僕のキスは僕が座ってる時以外は、
彼が何かに上るか、僕を強引に座らせるかでしか方法はない。





何故なら…それは圧倒的な身長差。







「身長のこと?」     「身長のこと言いやがったらブン殴るぞ」


また同時。
同時ついでに殴られた。





「い、痛い」


「そもそもテメェがデカすぎんだ」



そんなこと言われたって、伸びてしまった身長を縮ませる術など僕は知らない。
時々もめる話題ながら、どう頑張ってもこればかりは答えが出ないわけで。
それでも言われれば悩んでしまう。





思わず俯いてしまって、再び目に入った雑誌。
彼が立ち上がった時に落ちてしまったようで、
どこか別のページを開いたまま床に転がっている。
何の気なしにその記事を読むと…。

僕は呆気に取られてしまった。
一時間以上もの間、彼が一体何を真剣に読んでいたのか。
どうして先ほど雑誌が逆さまになっていたのか。
ようやく分かった。






それは何だか「これで君もプラス5センチ!」だとか書かれている記事。
要するに身長を伸ばすためのコツだとか歩き方だとかそんなのが書かれているものだ。
彼はこれを読んでいたのを知られたくなくて、
慌ててページを変えて、その拍子に上下まで引っくり返ってしまったのだ。




身長…そんなに気にしてたんだ…。





ぽかんとムヒョを見る。
相当妙な顔をしていたのか、彼は少しだけ気持ち悪そうな顔をした。



でも嬉しい。
身長差をこうも気にしてまで、彼が僕と口付けたいと思ってくれてるなんて。







「僕が屈む…!僕は鈍いから雰囲気とか読めないけど、
言ってくれたらいつでもちゃんとするから…!」






今度はムヒョがぽかんとする。
呆れたように。



「テメ、手間かかることに結局変わりねェだろが、それじゃ」





言われて気づいた。
確かにそうだ、キスまでまたワンクッション置かなきゃいけなくなっちゃう。
僕は何だか悲しくなってしょんぼりと肩を落とした。




「僕だって…君とキス、したいのに」





そんな僕を、ムヒョはしばらく黙って見つめていた。
そうしてふと笑う。
いつもの不敵で隙のない目つきで。
その眼差しからは、いつの間にか苛立ちがキレイに消えていた。





「いつでも、と言ったな?」


「う、うん」



マズい、と思った。
この瞳は何か悪いことを企んでるときの目だ。





「じゃぁ、オレが望めば、街中だろうが客の前だろうが、していいってことだな?」






……………え?



耳を疑いたくなるような発言に、僕の思考は見事に停止してしまう。
僕の頭が真っ白になってしまっている間に、
ムヒョは満足げに何度も頷いて、それから雑誌を拾った。
と、その動きが止まる。




「おい、ロージー」


「え、え?」



「オメェ…この雑誌見たか?」





彼の顔は床に向けられていて、その表情は見えない。
それなのにその声は凍えそうなほど冷たくて、恐ろしい。
まるで背筋を刃物で撫でられているような感覚に、思わず身震いする。




「み、見てないよ?」




「そうか、それならいい」




面を上げたムヒョの、打って変わって満足げな表情に、
僕は告げられた衝撃的な宣言を思い出す。
人前でキス。
そんなの絶対堪えられないよ…!


抗議しようとして、その前に釘を打たれた。
「言っとくが、オメェに拒否権はねぇぞ?」







さっきまでのイライラは一体どこへ行ったのだろう。
まるで新しい玩具を手に入れた子どものような満足げな表情で、
彼は笑っている。




人前でのそんな羞恥プレイにたえられるかは分からないけれど、
たぶんこの目に見つめられたら、僕はきっと彼のキスを受け入れざるを得なくなるだろう。









やっぱり不機嫌なときの彼に構うと碌なことがない。

そんなことを思って後悔しながらも、意外な彼の姿を知って、
今までは怖いばかりと思っていた彼を、僕は初めて可愛いと思った。






















■愛するMILK CROWNの中井茉莉さんに捧げさせて頂いた作品です。
中途半端に甘いような…(ん?これって甘いのかな)