あたうるもの。
















不愉快、鬱陶しいという言葉がぴったりの一日だった。



外は今日も腹立たしいくらいの晴天。
インクを滲ませたような透き通る青色の空には、雲ひとつ浮かんでいない。



空に見える影と言えば時折通る鳥の影と、飛行機の機影くらいで。
そんなものはほんの一瞬太陽の下を通り抜けるくらいで、
じりじりと身を灼く暑さが和らぐことはない。






唯一の救いと言えば、風が吹いていることだろうか。
少しでも多く取り入れられるようにと大きく開け放った窓からは、
涼しい風が絶え間なく入り込み、髪を揺らす。



窓の端には小さな風鈴がぶら下げてあって、それが間断なく鳴り続けている。






ちりり。


ちり。


ちりん。






それはいつからそこにあったろう。
先日はなかったように思うから、きっとロージーが買ってきて下げたに違いない。



気づけばそこにあって、風と共に涼やかさを届けてくれていた。
鈴を転がすようにささやかで控えめな声で歌い続ける風鈴の音に、
意識を預けるように瞼を閉じる。
それはまるで眠りを誘う呪文のように意識を誘う。






ちりん。


ちりん。






「ムヒョ、風鈴の音、好き?」
ぱたぱたと歩いていたロージーが傍で立ち止まる気配。
のろのろと瞼を持ち上げて、何度か瞬きをする。




「何故だ?」


愛想のかけらもないオレの声に、ロージーはふふふと笑った。
「なんとなくね、そんな気がしたの」




「良かった、ムヒョが気に入ってくれたみたいで」
そうして、君のために選んだ風鈴なんだよと笑う。







そう言われて、風に揺れ続ける風鈴をじっと見つめた。
透明なガラスに先の方がライトブルーとそれに混じるようなエメラルド。
まるで海をそのまま映し出したような色彩に、
波打ち際の飛沫のような白い気泡が無数に浮いている。



見たことのない風合い。
けれどまるで砂浜に打ち寄せる波の音まで聞こえそうなそれは美しく、
目を奪われるに充分な細工だった。






「変わった風鈴だな」
素直な感想を口にのせる。



オレの言葉を聞いたロージーは、
まるでとっておきの秘密を離すような顔で、両手を胸の前で組んだ。





「偶然見つけたんだけど…これ、沖縄で造られてるガラスらしいの」
そうして、何て名前だったかなと首を傾げる。



「琉球ガラスだろ、名前は聞いたことがある」



「そう、それ!本当に海みたいでキレイだよねぇ」
行ったことないけど、沖縄の海もこんな感じなのかな…。
にこにこと笑って、ロージーはふと思い出したように、
手にしていた書類を丁寧に机上のファイルに綴った。



















ちりり、と揺れる風鈴。

暑さに弱いオレが、僅かでも涼を取れればと選んでくれたのだろう。
そんなことは微塵も口にしないロージーだけれど、
言葉にはならないそんな彼の優しさに安堵する。





こんな暑い日もぱたぱたと忙しなく事務所内を歩き回るロージー。
休んでもいいんだぞと言っても、いつも必ず「大丈夫」と言って、
その手を怠けさせたりはしない。



彼の額には汗の滴が浮かんでいる。
煩わしそうにそれを袖口で拭う彼は、時折「暑い」と呟く以外に、
不平不満を口にしたりはしない。






僕にできることは少ないから、と笑って言うロージー。
そんなことはないと言えずにいるオレ自身。


















「あッ、そうだ」
書類のファイリングの後、本棚の分類別整理を始めていたロージーが
突然何か思いついたように手を叩いた。



どうした、とオレが尋ねる間もなく、彼は早歩きで風呂場の方へと向かう。
風呂場から出てきたロージーは両手に何かを抱え、そのままキッチンへと入っていった。
冷蔵庫を開く音と、カラカラと音をたてる何か。






「いい物持ってきたよ、ムヒョー」
頬に汗を伝わせながら彼が持ってきたものは大きめの洗面器。



「なんだ…?」


覗き込むとその中には水が張られていて、
いくつかの透明な氷がゆらゆらとたゆたっていた。
突然水に放り込まれた氷は、時折パキパキと割れるような涼しげな音を上げる。




ロージーは水が零れないようにゆっくりと慎重に、それを床に置く。
ソファに腰掛けているオレの前に。







「ね、ムヒョ。暑いでしょ?これに足入れたらきっと涼しいよ」



しゃがみこんで笑う。
この氷と同じような透明な笑顔に促されるように、その中にそっと足を浸す。






水にふれた足先から頭の先まで、
一気にすぅっと温度が下がる感覚に思わず溜息を漏らした。
足を氷と戯れるように揺らめかせると、肌に浮かんでいた不快な汗も静かにひいていく。




「どう?涼しくなった?」
そう言ってロージーは、この氷とか、
水だとか以上に透明で純粋な笑顔を向けてくる。



自分は部屋中動き回って汗だくのくせに。
そんなことは瑣末なことだと言わんばかりに笑って。









視線を落としたままロージーを見ることができない。
わざと大きく足を揺らすと、ぱしゃんと弾くような音を立てて、滴が舞った。
フローリングの床に、小さな水溜まり。




「ムヒョ…?どうしたの、あんまり涼しくない?」
途端に不安げに曇る瞳。



「あ…氷が足りないのかな」
と立ち上がろうとするロージーの腕をつかむ。





「…ムヒョ?」



「どうして…テメェはオレのためにここまでする」





考える前に言葉だけが無意識に零れ落ちる。
ひやりと冷たい足先と、つかんだロージーの腕の熱。
感じているのは罪悪感とも少し違う、もやりとした捉えどころのない感覚。




ロージーはいまいち質問の意図が分からないようで、
困ったように何度か目を瞬かせて首を傾げた。





「だって…ムヒョ、暑いでしょ?」


「違う、そういうことじゃねぇ。そもそもテメェだって暑いだろうが?」





何故、自分が涼しくなることをまず考えないのだろうか。
どうしていつだってコイツはオレを優先するのだろう。
どんな我侭でも、当たり前のことのようにかなえてくれる。
オレがコイツに同じようにしてやることはないのに。



そう思って、胸がツキツキと痛む。
オレはもしかしたら、オマエを便利だからと利用してるだけかもしれないのに。
オマエはそうは考えないのか。





「そこまでしてもらう資格、オレにはねぇだろ」
ぽそりと落とした言葉に、ロージーは、
意味が分からないよと言うようにきょとんと目を見開いた。




「だって、僕は君が喜んでくれたら嬉しいから」
それが理由じゃ、おかしいかな。









コイツはただ、心の赴くままに生きている。
どこまでも澄んで、透き通るような心。
















ちりん。


ちりん。





風に揺られる風鈴。




それが心の琴線をかき鳴らす。








オレも、オマエのように生きられるだろうか。

















「ロージー」


「ん、なぁに?」



ほんわかと微笑う彼の腕を強引に引っ張り、隣に座らせる。


「しばらく休め」



「え、え…え?」
突然のことに混乱するようなロージー。
「で、でも僕、片付けが途中で…」



「んなの、明日でいい」



しばらくぽかんとオレを見つめていたロージーは、えへへと嬉しそうに笑った。
「ありがと、ムヒョ」





「別に。テメェのためじゃねぇ」

















足元の氷がカラリと音を立てて溶けていく。
長いこと、ほんとうに長い時間黙り込んでしまって、
互いの存在など忘れてしまいそうになる頃、ムヒョは横目でロージーを見た。



琥珀の瞳は閉じられ、うっすらと開いた唇。
ゆっくりとした浅い寝息。
「寝ちまったのか…」





呟いて、そんな彼に思わず相好を崩す。





頬にかかる髪を静かにかき上げてやると、彼は微かに声を上げた。
僅かに額を濡らす汗に気づき、オレはテーブルに置いてあったうちわを手に取る。




「バカめ、こんなに汗だくになりやがって…」


穏やかな眠りを妨げぬよう、ぱたぱたと静かに扇いで風を送ってやる。
微風に彼の柔らかい髪がふわりと浮き、
うちわを扇ぐ音に重なるように、風鈴が揺れた。



眠りの中で、それでも心地良いのか、ロージーの唇が笑みを形作る。



扇ぎ続けている腕は疲れ、額に汗が浮かぶけれど、
どこか心地よさを感じてオレは苦笑した。















ちりん。


ちりりん。




頬杖をついて海色の揺れる音を聞きながら、
ロージーの寝顔を見つめている。







あのガラスのセルリアンブルーは、オマエにこそ似合うだろう。
そんなことを、ふと思った。
























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■ムヒョロジ祭さまに参加させて頂いた際の作品第二弾。
お題「俺にはそんな資格無い」でした。
背景が…何とも、ね!大失敗です(笑)