光華

















じりじりと太陽が照りつける、まさに真夏といった暑さだった。






外では事務所の窓さえ震わせそうなほどの無数の蝉の声が響き、
耳を塞いでも聞こえてくるその声に煩わしさを感じて苛立つ。
風を通そうと窓を開けるも、外はほぼ無風状態。





ソファでぐったりと横たわりながら、ムヒョは微かに呻いた。
じっとしていても額に浮かぶ汗の玉。



少しでも熱のこもった体を冷やそうと頬に当てていた氷枕は、
すでに溶けきってしまい、その感触は生ぬるい。
それでもないよりはましだと顔に押し付ける。



本来はクーラーをつけても構わない温度だとは思うが、
先月赤字だったから今月は節約してね、とロージーに念を押されていて
それはできないでいる。






そもそも自分がこの事務所の所長であるわけだから
有無を言わさずクーラーをつけてしまえばいい。
けれどそれもできないでいるのは、
ロージーが先月からの依頼人不足による収入減のために、
家計簿を前に毎晩頭を抱えているのを目にしているからだ。




「この暑さじゃ霊も形を潜めたくもなるか…」
収入のために霊事件を求めるほど不謹慎な人間ではないが、
この暑さに思わず愚痴も出てしまう。












事務所に響くのは外からの蝉の声だけ。
そういえば、先ほどからロージーの姿が見えない。
視線を動かすのも億劫ながら、それでも彼の姿を探して事務所を見回す。




「ロージー?」


呼んでみるも返答はなく、彼自身の気配もない。
放っておけ、と思う心もあったが彼の財布がテーブルの上にあるのを見て、
買物に行ったのではないことを知る。





「ちッ…アイツ、どこに…」
ゆっくりと体を起こすと、それだけで肌に汗が浮く。
頬を伝ったそれを乱暴に腕で拭って、玄関までよたよたと歩いた。





















扉を開くと、無風に近いとはいえそれでも階段を吹き抜けた風が肌を撫で、
一瞬の心地よさに瞼を伏せる。




コンクリートが剥き出しの壁はひやりと冷たい。
次昼寝する時はここにするか、と冗談とも本気ともつかないことを考えてふと笑う。






壁にふれながら階段を降りる。
下の方は外の明りで白く眩しい。






















外に出た瞬間、何かが体に降ってくる。


「…あ」




ムヒョは目の前で間抜けな声を上げてぽかんとするロージーを見つめて、
ようやく冴えてきた頭をふるふると振った。
ムヒョの頭から足先まで滴る水滴。
ロージーの手には水が流れたままのホース。





「オイ、テメェ…オレに水浴びせるとは…いい度胸だな?」


「ご、ご、ご、ごめんね、ムヒョ…!」



ロージーはわたわたと慌てた様子で後ずさり、
その拍子に足をもつれさせ転んでしまう。



「きゃ…」



まるで女の子のような悲鳴をあげて尻もちをつく彼に、
ムヒョは怒る気も失せて溜息をついた。
転んだ時にホースがねじれてしまい、
ムヒョと同じく頭から水を滴らせたロージーは情けない顔でムヒョを見つめる。





「冷たい…」



「…で、テメェは何をしてるんだ?」




ホースを手に建物の前にいたロージー。
花が咲いているわけでもないこの場所で、彼は何をしていたのか。




ロージーは尚も情けない表情のまま、
不機嫌そうなムヒョを上目遣いで見遣った。




「暑いから…水撒き…」


「…何だと?」



言いにくそうにロージーは視線を泳がせた。
「だって…あんまりにも暑いから、水でも撒いたら少しは涼しくなるかな、って」






ムヒョは呆れたように腕組みをする。
「要するにオメェは、水遊びをしていたと。そういうことか?」




また何か言い訳を考えているようだったロージーは、
しばらく口ごもってから素直に頷いた。




「ご、ごめんなさい…」





ムヒョはふと足元に目をやった。
ロージーの手に握られたままのホースからは尚もたぱたぱと水が零れ続けている。
アスファルトは乾く間もなく濡れ続け、
確かに水が撒かれているその周辺は心なし涼やかに感じる。




仕方ねぇ奴だな、と内心でぼやいて、それからビショ濡れの体を見下ろした。
「まぁ、確かに暑くはなくなったがな」





「オレは事務所に戻って着替える。ついでにクーラーもつけるぞ」
ムヒョの言葉にロージーは抗議しかけて、思いとどまったように口を噤んだ。
当たり前だ。
自分は外で水遊びなどをしていたのだから、文句は言えまい。


















そうして階段を上り始めたところで、
「ムヒョー!来て来て…!」
というロージーの声に呼び止められる。



ムヒョは微かに舌打ちをして、立ち止まった。



「一体何なんだ、今度は…!」




階段の薄暗がりから再び外に出た瞬間、
飛び込んできたのは尚も水を撒き続け、嬉しそうに笑うロージーの姿。



透明な滴が細やかな粒となって散り、
その一粒一粒に透き通るような青空が映し出されるように煌めく。
ホースから流れる水流は光を帯びた白銀に輝き、
陽光を受けた蜂蜜色の彼の髪をしっとりと濡らしていた。






目を奪われて一瞬動きの止まってしまったムヒョに、
ロージーは笑いかけた。
「ねぇ、ムヒョ。虹…!」



ロージーが指差すその先、
ホースの水流が弧を描いて流れ落ちるその途中に、小さな虹ができている。




手を伸ばせばふれられそうな、七色の小さな円弧状の光。
空にある時はあんなにも遠く、近づくことのできない夢のような存在だというのに。
それでもその美しさは損なわれることなくそこにある。
水がプリズムとなって発生するものだ、という理屈は分かっていても、
それに感じる神秘性は損なわれない。





ぱしゃぱしゃと音を立てる水。
ロージーはにこりと笑ってムヒョを見た。



「ムヒョは、何色が好き?」


「あ?」



「虹。僕はねぇ、青が好きかなー」
えへへーと無邪気に笑ってその七色を見つめるロージーを、
ムヒョは黙ってしばらく見つめていた。






赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の順に並ぶ色彩。




向こう側が透けて見えるほどに繊細なそれと、
それを生み出して嬉しそうなロージー。






いつまでも流れ続ける水が靴に染み込んで、足を濡らして。
虹の反対側、真上で輝く真夏の太陽は
ロージーの輪郭を微細の粒子に変えるように眩く、
時折吹く微かな風に揺れる彼の髪はまるでそれ自体が光を溢すように輝いている。




眩しいのは太陽なのか、それともロージーなのか。





ムヒョはただ黙ってそれを見つめていた。



「ム、ヒョ…?」
ロージーが怪訝そうに首を傾げる。







ムヒョは虹に手を伸ばした。
当然のように指先はそれを通り抜け、手の中には何も残りはしない。




「ムヒョ?」
どうしたの、と言いたげなロージーの琥珀の双瞳を覗き込むようにして、
ムヒョはくつくつと笑った。




「黄金色、なんぞいいんじゃねェか?」






「そんな色ないよ…?」
きょとんとしているロージーを置いて、ムヒョは事務所に戻った。


























相変わらず事務所の中は熱気がこもって息が詰まる。
クーラーをつけようと窓へと近づくと、水の音が聞こえる。
身を乗り出すようにして下を覗きこむと、ロージーはまだ水と戯れていた。
その光景に、ムヒョの唇に思わず笑みが浮かぶ。





「子どもと大差ねぇな」



放物線状の水流を目で追うように上を見上げたロージーの視線が、
ムヒョのそれと絡む。
青空を映しているであろうその瞳と、
世界の輝きを全て集めたような黄金色の髪。


彼はすぐ嬉しそうに笑って手を振った。
ムヒョは苦笑しながら右手を挙げてそれに応える。













ロージーの手元に小さな七色が見える。
それは、手につかむことのできない奇跡。



魔法律という、生よりも死に近い仕事をしている中で、
手に入らぬものを求め希望を託すことなど到底ありえないと生きてきたのに。





「…いつの間にか掴んでたとは、な」




それは他のどれよりも美しい、無垢な奇跡。
ムヒョは窓枠に手をかけたままゆっくりと目を伏せる。








外では蝉が泣き続け、鳴り止む気配は見せない。
青の一番高くにある陽は雲に隠れることもなく。




けれどどこか心に安らぐものを感じて、ムヒョは小さく微笑った。























■以前、日夜海羽ちゃんに捧げさせて頂いた作品です。
夏らしく、そして穏やかな感じに。