遠く、滲む、想いに寄せて。















「今のうちに言っとくか」
そう言って彼はいつものように笑った。










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目の前も、後ろに広がるのも、ただただ先の見えない暗闇だった。
足元には水流。



視覚ではなく、服に染込んでくるその感触でそれを知る。
清らかな水ではない。
ねっとりと絡みつくような、どこか重みのある感触が足首に纏わりついて離れない。




明りも何もないようなその場所をひたすらに走る。

息はとうに絶え絶えになるほどで、取り入れる酸素よりも二酸化炭素ばかりが多く体内に残るようだ。
喘ぐような呼吸の中にガラスを傷つけるような甲高い声が混じる。
額を伝う汗と、苦しみによる涙がとめどなく伝い、だがそれを拭う余裕もない。
ふいに足がもつれ、水流の中に飛ぶように体を叩きつける。



「…ッ!」



ぐらりと体を揺らせながら、それでも立ち上がる。
転んだ拍子に入ってしまったのか、口の中に砂のような気持ちの悪い感触。



じゃりと音を立ててそれを噛んでしまうけれど、
吐き出す時間が惜しいというように立ち上がりかけて、
くるぶしに感じたふいの痛みに短い声を上げて再び倒れる。




這いつくばったまま、ゆっくりと手探りで進み、壁のようなものを探り当てると、
そこにもたれかかるようにしながら立ち上がる。
くるぶしに感じた痛みはズキンズキンとますます痛みを強くし、
思わず眉間を寄せてしまう。





ダメだ。
立ち止まっている暇はないのだ。






「ぐ、ぅ…ッ…」



歩き出す。
痛みに涙が止まらない。






ゼィゼィと肩で息をして、ひきずるように前に進む。
ひたひたと音を立てて壁にふれていた指が、水とも苔ともつかないものにふれる。
それはぬるりと指先に絡み、けれどその生暖かさに目を見開く。




両手で壁にふれた。

一面にその不快な感触。
認めたくないような不安が現実となって押し寄せる。






周囲には、生々しい血の臭いが充満していた。














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【数時間前】














「ちッ…嫌な仕事だな」
依頼主が帰ったあと、ムヒョは彼にしては珍しく眉間に皺を寄せた。



丁度買物に出ていた僕は依頼の内容を聞いていない。
買ってきた飲み物や野菜を冷蔵庫に仕舞ってから、
椅子で足を組んで苦い顔をするムヒョの背後から依頼書を覗き込む。




「うわ…ッ」


思わず変な声が出てしまったのは、依頼の内容にではない。
それは報酬の欄。
いつもより0がひとつ多い気がする。




気のせい…じゃないよね。
そのまま依頼内容まで視線を移動しようとして、
けれどその紙はその前にムヒョの手によって閉じられてしまう。




「…ムヒョ?」


怪訝な顔をする僕に目を合わさず、ムヒョは更に眉間を寄せる。
そんなに皺寄せたら痕残っちゃうよ、と指先で彼の眉間にふれて笑う。
けれどムヒョは難しい表情のままだ。




「どうしたのさ」
なんか、変だよ。




依頼書に手を伸ばすけれど、ひょいと器用に避けた彼は
僕が手にするその前にそれを彼専用のファイルに綴ってしまう。





【ムヒョルールXX:専用ファイルに綴られたものを見てはいけない。】






僕はむっとして頬を膨らませた。
「見ちゃ、ダメってこと?」



「オメェには関係ない案件だ」
ムヒョは頬杖をついて目を伏せてしまう。





「でも僕も内容知ってないと、仕事に差し支えない?」


「いい。この案件はオレ一人で片付ける」
テメェはここで待ってろ。
不機嫌そうな彼は立ち上がると、
ハンガーにかけてあった執行服を右手でとりながら、左手で魔法律書を掴む。



「ムヒョ…?」



今まで彼が明確な理由なしに僕を置いていくことなど、
ただの一度としてなかった。



そんなに危険な案件なのだろうか、と不安が鎌首をもたげる。
一度湧き上がった不安はなかなか拭えずに心の中で這いずるように暴れだし、
心臓がどくんどくんと早鐘のように打ち始める。
あまりにも不自然な彼の様子に、僕はその腕に取りすがった。





「ムヒョ…、理由を言ってよ」



ムヒョは感情を殺したような目で僕を見つめる。
ヘマタイトのようにツヤを抑えたような黒は、光の加減で銀を帯びる。
いつも厳しいその目は、反論を許さぬような厳しさで僕を見据えた。



背筋がひやりとするその空気に、コトバが、出ない。
いや、出ないのではない。
出せないのだ。




「……ム…」
圧力に震えそうになりながら、唇を開いた僕に、彼はふと優しく笑った。



「ムヒョ…?」


「大丈夫だ。テメェは何も考えるな」




無意識に胸の前で握りしめていた手を、上から包み込むように掴まれる。

ひやりとした手。
不安げに見上げているであろう僕に、彼はもう一度考えるな、と呟いた。





「夕飯までには帰る。オメェは飯でも作ってろ」



そう言って出て行くムヒョの背中を、僕は黙って見つめる。
と、出て行きかけた彼がふと何かを思い出したように振り返る。
そうしていつものように笑って呟いた。





「あまり、泣くな」














一人立ち尽くす事務所で、僕は両腕で自分の体を抱きしめる。
震えていた。



ムヒョの姿が見えなくなって、不安は更に膨らんでいく。
まるで鉛の塊を飲み込んでしまったような違和感と不快感に、
目じりに涙が浮かぶ。



あの人は泣くな、と言った。
普段聞くことのないそんな言葉はまるで途切れた物語のような寂しさを思わせる。




まるで。
まるで、遺言みたいだ。






こんな時、思う。

確かに僕は頼りにならないかもしれないけれど、それでも隠し事をされるのは悲しい。
僕とムヒョとの間に、彼はそうして壁をつくってしまうのだ。




言って。
教えてよ。
助けになれなくても、こんな風に突き放されるのはいやだよ。
















しょぼんと肩を落としていると、事務所のドアがノックされる。
「ムヒョ…!」




勢いよく扉を開けると、そこには見知らぬ女性が立っていた。


















4丁目の廃墟、その隣を流れる川、使われていない下水道。


一ヶ月前から現れた霊。


一ヶ月前からそこで見つかる子どもの遺体。


遺体は全て引き裂かれている。




最近は近づいた人間はみな遺体となって川に上がる。





女性は、先ほどムヒョに仕事を依頼した依頼主だった。









「ムヒョ…!」



急がないと。
早く、行かないと…!




頭の中はそれでいっぱいだった。







そうして廃墟についた僕は、脆くなった床に開いた穴に気づかず落下した。














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両手に付着した血液。
暗闇に血の色などは見えないからか、その生臭さばかりが際立って、
僕は思わず口を抑えた。
胃から込み上げる不快感。




これは、夢だと思って、それでも足首の痛みに、
これが現実だということを思い知らされる。




「…ッ、ムヒョ…」



立ち上がろうとして、ガクリと折れた膝。
支えるように伸ばした手が水面を強く叩き、ばしゃりと割れるような音を立てて跳ねる。




「ムヒョ…ムヒョ…ムヒョ…」



喘ぐように何度も呟いた。







水流は僕の体を避けるようにその流れを乱して、闇に呑まれて溶けていく。
聞き飽きるほどの水の音と、荒い呼吸だけがドーム型のコンクリートに反響する。
その音に身を預けるようにしながら、僕は眠るように流れに身を沈めた。
水が、涙を流していき、入れ替わるように瞳に浸入する。



「ムヒョ…」




とろりと溶けていく意識に、ふと何かがふれた。






ゆっくりと顔を上げる。
瞼を伏せて、どんな僅かな音も聞き逃さないように、耳を澄ます。






「……あ…」















聞こえた。


確かに、聞こえた。





声、だ。



あれは、ムヒョの声だ。


















どうやってそこまで進んだのか、覚えていない。



必死で必死で、ただただ僅かな希望に縋るように進んだその先は、
真っ暗で狭い通路と比べてやや開けた薄明るい場所だった。
1本道で流れてきた水がそこで一旦集まり、また幾本もの道に分かれていく。




這いずるようにした体をようやくの思いで半分ほど起こし、周囲に目を凝らす。
壁際の一際濃い闇の中、淀むような水に波紋を生むようにしてうずくまるような人影。
それを認めて、思わず安堵の吐息をこぼした。
癖のある後ろ髪と、更なる闇を呼び込むような黒い外套。



「ムヒョ…」
ほ、と思わず浮かべた笑顔をすぐに打ち消して僕は驚愕に目を見開いた。




淀んだように見えた水は…大量の血だ。
赤というよりもどす黒く、辺りを染めている。







そして。
その前に立ち尽くす小さな影。
長い髪で顔を隠すようにうな垂れたその姿は、背格好から子どもだと分かる。
その足は水に浸かっているというのに、不思議と何もないように水流は穏やかに、乱れていない。





――――――霊だ。














這うように近づいていくと、二人の会話が聞こえる。
場所が薄暗いせいなのか、互いが互いに集中しているせいなのか、僕の存在に気づく様子はない。




「そろそろ…大人しくしやがれ…」
言葉の威圧感と反して、ムヒョの吐息は荒く掠れていた。



「……」
霊の声は空気を振動し、場を乱す。
その特殊な音は僕の耳に届く前に、音に鳴らない音に変わり、潰えた。



ムヒョが忌々しげに舌打ちし、魔法律書を開く。
と、それを見止めた霊の指先が大きく変化し、刃物のような形へと変わるのが見えて、僕は息を呑んだ。








挫いた足は一歩ごとに悲鳴をあげそうなほど痛い。


走り続けた体はもう休ませてくれというように軋んでいる。




痛い。


唇を噛んで僕はゆらりと立ち上がった。





痛い、けど。







今、動かないで、何のための体だ。

















ヒュと空気を裂くような音がした。
同時に何とも形容し難い音。



時が止まったようだった。
薄暗いはずなのに、視界は明るく霞んでさえ見えた。





「…ぐ…ッ…」




よろめくように倒れ掛かって、目の前の小さな存在を見据える。


小さな体。
小さな手。
どこを取ってもそれは小さな子どもだ。






僅かな時間、視線が絡んだ。
ふいのことに驚いたように、その大きな目を瞠っている。




哀しい目に、見えた。
服にはすでに褪せたような色の血痕と、手からは未だ乾ききらぬ鮮血が滴り落ちているというのに。
その姿はとても痛ましく見えた。




どうして、だろうね?

君もそんなに小さいのに。
誰が、何が、君をそうさせたんだろう。









「ごめんね」




呆然としたような霊に、僕は、魔縛りの術を行使した。















「今、だよ。ムヒョ」



振り返って、僕は笑ったはずなのに、なぜか瞳は揺れて、胸が痛んだ。
膝をついて見上げた視界に、魔法律書から光を溢れさせた彼の姿が映る。





糸のような細さでようやく繋ぎとめられていた僕の意識は、そこでぷつんと途切れた。

















白い闇が広がる。


どこまでも真っ白すぎて、先が見えているのかそれとも遮られているのか、それすら分からぬほどに。




足は浮いているような感覚で、歩くというよりも風に乗っているような軽さで前に進む。

ふと、目の前に小さな姿。
キレイな髪を長く伸ばして。




目の前で立ち止まった僕に、その子は何も言わなかった。
両腕を伸ばして、その小さすぎる体を抱きすくめる。
腕にすっぽりと収まってしまう、小さな体。



僕は小さく微笑った。




「お母さん。君を、愛してるって…言ってたよ」





驚いたようなその子の瞳に透明な滴があふれて落ちた。
そうして抱きしめていたはずの質量が、一瞬で腕の中から消える。
代わりにひらりとキレイな蝶が舞って、淡い黄金の鱗粉を溢しながら、白い闇に溶けるように消えていった。


















「…う」


ふいに覚醒した意識に、ぼくはぼんやりと瞼を持ち上げた。
僕は何をしていたんだろう。
と、視線を上げるとすぐ間近にムヒョの顔があって、思わず悲鳴をあげてしまう。



「テメ…失礼な奴だな…」




苦笑混じりのその声。
僕はどうやら彼に抱えられているようで、反射的に下りようとした。



けれどムヒョは僕の体を押しとどめて、「足、折れてるからじっとしてろ」と短く言った。
彼の言葉に、そうしてゆっくりと状況を思い出す。




霊はどうしたの、と聞こうとして飲み込んだ。
夢の中で会ったのは、確かにあの霊だった。
あの子は、笑っていたから、だからもうそれ以上聞くのはやめた。





「悪ィな…」


「え…?」




突然発された彼らしからぬ言葉に、首を傾げる。
ざばざばと水を蹴って歩きながらムヒョは少し黙って、それから眉間を寄せた。



「結局、テメェに怪我させちまった」



幼子を裁くのにも、こんな危険な案件にオマエを関わらせるのも、避けたかったと…
そう言ってムヒョはまた難しい顔をした。







「違う、よ…」
僕は何度もかぶりを振る。



違う、違う、違うよ。






「僕は…僕は役立たずで泣き虫だけどさ…、怪我なんて全然怖くないんだよ?」




「僕の見えない場所で君が消えたら、って…それだけが怖いのに…」




この人のためなら、どんな痛みにだって耐えられるのに。
骨が折れようが、肉を裂かれようが、この人を失うくらいなら何だって喜んで受け入れるというのに。







どうして、分からないの?












『今のうちに言っとくか』



「バカ…、バカバカ…あんな遺言みたいな言い方して…一人でこんなとこ来てさ…」


こんなに間近なのに、ムヒョの表情が見えなくなるくらい、涙が溢れて溢れて仕方なかった。
嗚咽で震える声を一生懸命に張り上げて、想いをぶつける。
泣いて、感情のままに言葉を吐き出して、それでもそんな方法でしか、伝えられない。




「…泣くな、なんて…誰が泣かせてると思ってるの…」





血で染まった壁を見たとき、僕がどれほど絶望したか、分かる?
冷たい水の中で思い浮かんだ君の死がどれだけ残酷だったかなんて、君に分かる?




君は、バカだ。
卑怯だ。







僕一人置き去りにして、こんなに傷ついて、それが最善だと本気で思ってるなら。
とんでもない愚か者だ。



















多量の出血のためか、それとも極度の疲労のためか。
言いたいことだけを言って眠ってしまった助手を抱えたまま、六氷は無言で水流を裂くようにしながら進んだ。

正直自分一人の体を運ぶのもツラいほどに、体には無数の傷が痛みを主張している。
けれど見下ろした細い体は、もっと傷ついている。





折れた足首。
体中すり傷だらけな上、霊に切り裂かれた腕からは尚も血が流れては落ちている。
正に満身創痍といった風体だった。





「バカめ…」
と呟いて、彼は珍しく表情を歪めた。












違う。
バカなのは、己だ。



知っていた、コイツの思いは。
けれど連れてこられなかったのは、オレの弱さだ。







傷つく姿を、見たくはなかった。




傷つくのを見たくないと思ったオレと。
自分の知らぬところで死ぬなと言ったオマエと。





どちらが強いだろうな?











「情けねぇ…」


守ってやらねば、といつからか驕っていたのだろうか。
コイツの涙は弱さゆえと、オレは本気でそう思っていたのだろうか。



















地下水路から外に出た六氷は、光に目を慣らすように、何度かゆっくりと瞬きをした。
腕の中の体は浅い呼吸のまま、深く眠りに沈んでいる。




夕暮れ。
スカーレットに滲む空。
橙に霞む筋状の雲。





まるで、血のようだ。








ふいに思い出されたのは、霊に攻撃される瞬間、間に飛び込んできた彼の姿。
血しぶきに染まった視界。
一瞬、彼を喪う恐怖に、体が震えた。





「ロージー」






目の前の体は、確かに熱を持ち、生きている。




「泣くな、じゃねェな…」



生きていてよかった、コイツが。
失わずにすんで、本当に。








「泣かせねェ、だ…」





六氷は短く深い吐息を落として、眉間を寄せる。
そうして、この上もなく優しく穏やかな顔で、静かに微笑った。











スカーレットを滴らせるような空は、じわりと靄がかった薄紫へと滲んでいく。
まるで、痛みも喜びも、そして生まれずに消えていった言葉さえも、全て飲み込んでいくように。