烙印 罪の果実を食べた。 滴るように紅いそれを。 たった一口、喉の渇きを潤すように。 紅い罪の果実と、 それに立てられた僕の白い歯。 僕の生々しく血液の流れる白い肌。 罪を知って、その樹液に濡れる指先。 甘い。 じゅるりと口端から滴る透明な液体が零れて落ちる。 ゆっくりと咀嚼して、砕けたそれは喉奥へと流れていく。 罪を溜めて溜めて。 その甘さに僕は笑った。 僅かな光を集めて煌めく、金の瞳。 薄暗がりの中で、それでも確かにそれは僕を見つめているようだった。 「こんばんは。」 いつものように声を掛けると、 薄暗がりの影は寝台の上にゆっくりと体を起こした。 静かにベッドサイドの明りが灯る。 「こんばんは」 突然起こされたにも拘らず、 彼はそれを不快に思う様子もなくいつものように笑っていた。 当然パジャマ姿の彼が、寝台から降りこちらへ来ようとするのを、 片手をあげて制止する。 「いいよ、そこにいて。」 「でも…」 「いいの。すぐ、帰るから」 『帰る』なんて言って、 その言葉の滑稽さに僕は内心笑う。 帰る場所なんてないのにさ。 それが面に出てしまったのか、彼は少しだけ表情を曇らせた。 だから、微笑みかける。 大丈夫だよと言うように。 「何か…あったんですか?」 潜めた声。 隣室で眠っているムヒョを起こさないように、気を遣ってくれているのだろう。 「何も。ただ、なんとなくね、君に会いたくなった」 彼は何かを言いかけるように口を開いて、 そしてすぐに呑み込むように首を振る。 ただ不安そうな眼差しだけを向けて。 僕はそれに気づかないように周りを見回した。 キレイに片付けられた部屋に彼の性格が現れているようだ。 所々に置かれたトマト型のキャラクターグッズが可愛らしい。 「君の部屋に入るのは、初めてだ」 そう言って、足元のクッションを拾う。 ふわふわと柔らかいそれも、同じくトマト柄だった。 彼はそんな僕の様子を上目遣いでじっと見つめている。 そうして思い切ったように口を開いた。 「僕に…会いに来ちゃダメです」 真剣な声に、けれど僕は微かに笑う。 「どうして?君は僕が嫌い?」 「分かってるでしょう?もしムヒョに見つかったら…」 愉快そうな僕の表情に戸惑うように、 彼は言葉を途切れさせる。 興味深く眺めていたクッションを元の場所に戻して、 僕は壁に寄りかかった。 「そうだね…でもそうなったら、君はどうする?」 意地悪な質問なのは分かっている。 分かっていて、僕は彼が誤魔化すのを許さない。 透き通るような琥珀の眼差しを見据えて答えを待つ。 じわり、と彼の目尻に涙が浮かぶのが見えて僕は少しだけ首を傾けた。 「あぁ、ごめんね。困らせるつもりじゃなかったんだ」 嘘だ。 僕は彼が思い悩むのを知っていて、 この問いを投げかけた。 そんな思いに気づかないような彼は、 瞳の輪郭を揺らせながら唇を噛んで僕を見つめている。 「アナタは…じゃぁアナタはムヒョに会ったらどうするんですか」 時折声を詰まらせる彼からつと目を逸らして、 僕は小さく「殺す、かもね」と呟いた。 「うん…たぶんね、そうすると思うよ」 自身に確認するように呟く僕に、 彼は無言で何度もかぶりを振った。 「もう、戻れないんですか?」 そう言う彼は、ほんとうは分かっているのだ。 その答えを。 だから今度は僕が無言でかぶりを振る番だった。 組んでいた腕を解いて、寝台の上の彼の両目を塞ぐ。 「戻りたい、よ」 ほんとはね、と呟いて笑う。 「それなら――――――…」 「でも、戻れない」 「どうしてですか…」 弱々しく震える声に、ほんの一瞬だけ心を動かされる。 僕の手のひらの下で、彼はどんな目をしているだろう? 両の琥珀はまだ、僕を見つめているのだろうか。 「だめなんだよ。僕の手は血に染まってしまったから。」 震える彼の唇。 指先にふれる温かい感触。 嗚咽をこらえるような吐息。 僕のために泣いてくれるんだね、君は。 君の大切な人を手に掛けようとする者のために、心を痛めてくれるんだね。 「ありがとう」 「…僕は…何も…」 ありがとう。 ありがとう。 僕を想ってくれてありがとう。 君と会うことができて、僕は“人”であることを見失わずにいられる。 ホント言うとね、もう僕には自信がないんだ。 ムヒョを殺せるかどうか。 君の目の前で、ムヒョを肉塊に変えられるかどうか。 もしもその一瞬躊躇ってしまったなら、死ぬのは僕だろう。 君は、それでも胸を痛めるのかな。 「僕が死んだら…泣いてくれる?」 「そんなこと…言わないでくださ…」 「うん…そうだね、ごめんね」 しゃくり上げながら、彼は強く僕の手を握った。 弱々しく泣く彼の儚さと違って、それは温かく力強かった。 甘い。 罪の果実は紅く紅く、この上もなく甘かった。 芳醇な香りは僕の迷いを断ち切って、この身を罪に染めた。 あぁけれど。 その代償は楽園追放。 僕は僕自身の手で、帰る場所を失くしてしまった。 後悔だ。 後悔しているんだ。 なぜ、禁じられた果実に手を伸ばしてしまったのだろうと。 なぜ、蛇の誘惑に負けてしまったのだろうと。 なぜ、もっと早く、君に出会えなかったのだろうかと。 もう何もかもが、絶望へと進んで、決して戻りはしない。 残してきた血の痕が、消えることはないというのに。 |