空、へ














色とりどりの鮮やかな球体の群れが風に揺られていた。


初夏の薄青の空を背景にして、
それは時々吹く風を楽しむかのようにゆらりゆらりと揺れていた。















カラリと渇いた空気。
青さを増す木々の葉が光を映し、さわさわとざわめいている。
先日まで鬱陶しく続いていた梅雨が過ぎ去り、
風は陰鬱とした灰色の雲を追いやり代わりに真っ青の空を連れてきた。




「ほんとうに、いいお天気。ね、ムヒョ?」
気持ちの良い空気を胸いっぱいに吸い込んで、
ロージーは振り返り微笑んだ。
目線の先で声を掛けられた相手は興味なさそうな眼差しを返す。





「オレはどっちかっつーと雨の方が好きだがな」



ロージーがぷぅと頬を膨らませる。
そんなのつまんない、といじけたように呟いて。





「君はもう少し、太陽にあたったほうがいいよ」

「お断りだ。植物みてーに光合成するわけでもあるまいし」



相もかわらずつれない答えに唇をへの字に曲げたロージーの視界に、
ある物が映りこんで、彼はムヒョの服の裾を思いっきり引っ張った。
当然そのような方向に移動する予定のなかった彼のカラダは傾ぐ。
幸いすぐ傍にいたロージーの脚へとぶつかり地面への直撃は避けるが、
突然の彼の暴挙に抗議しようとしたムヒョはその言葉を飲み込む。
ロージーが目を輝かせて何かを真剣に見つめていたからだ。
ゆっくりとその視線を追いかける。







「風船…?」



その先では何かのキャンペーン中だろうか、
たくさんの風船を手にした妙な着ぐるみが立っていた。
それを今にも指でもくわえそうな表情で見つめているロージー。






「おい。まさかオメェ…」
その歳にもなって風船ほしいのか、と聞こうとしてその前にロージーが
「ほしい…」と呟くのを聞いて溜息をつく。





「バカが。自分の年齢考えてみろ」



フンと鼻を鳴らして、先に歩き出す。
物ほしそうな顔をしたまま、着ぐるみの前を通り過ぎるロージー。
案の定着ぐるみはロージーには目もくれない。
はーっと溜息をつくロージー。
いい加減にしろと言いながら振り向いたムヒョは、
目の前の光景に一瞬戸惑った。
あの着ぐるみが立っている。






















「わ、ムヒョ。僕ほんとうにコレ貰ってもいいの?」
嬉しそうに弾む声に、ムヒョは眉間を寄せた。



「それにしても、風船、ムヒョにくれるなんてねぇ」
意味深にふふふと笑うロージーにますます眉間の皺を深くして、
ムヒョはカラダにまとわりつく執行服を乱暴に払った。






風船配りの着ぐるみは追いかけてきて、
なんと先を歩いていたムヒョに風船を差し出したのだ。
ぽかんとしてるムヒョの手に風船を握らせて、
着ぐるみはすぐ戻っていってしまったけれど。



その時のムヒョの顔ったらない、そう思ってロージーはまた笑った。
鳩が豆鉄砲とはよく言ったものだ。





「おい、てめいつまで笑ってやがる」



取り上げるぞと風船に伸ばした手を器用にかわして
大して悪いとも思ってないような表情でロージーはごめんねと呟いた。






「でもほんとーに嬉しいな。すごく、キレイな色だと思わない?」


風船の色は鮮やかなレモンイエロー。
言われて風船を見つめながら、
光に照らされて揺れるそれはまるでロージーの髪のようだとムヒョは思った。

ふわりと風に揺れるロージーの向日葵色の髪は、
風船よりも淡く繊細だったけれど。
けれど頼りなげに揺れる姿はロージーそのものに見えたから、
ムヒョは瞳を眇めた。






「ねぇムヒョ?」
視線は常に風船へと向けたままで呟く。
ゆらゆらと頼りなく細い糸のみで支えられたそれが動く度、
同じように目線を揺らせながら。




「なんだ?」


「風船をたくさん持ってたら、空飛べるかな?」



またくだらないことをと思いながらロージーの顔を見て、
思わず言葉に詰まる。


ロージーの腰ほどまでしかないムヒョの身長では、
空を見上げる彼の表情までは分からない。
けれどロージーは一途なほど真摯な様子で、空と風船とを見つめていた。
光の粒子で曖昧に霞む彼の輪郭。
眩しすぎる太陽のせいでロージーを直視できなくて、
ムヒョは何度も瞬きを繰り返した。






天を仰いだままのロージーはそんなムヒョに気づく様子はなく、
尚も言葉を紡ぐ。
「飛べたらいいのになぁ」




そう言って、どこか憧れるように風船を持っている方の手を掲げる。
まるでほんとうに飛べることを信じているかのように。
















と、突然強い風が吹いた。
往来の人々も思わず立ち止まってしまうような風。
砂塵が舞って反射的に目を伏せたムヒョの耳に、
ロージーの何か呟くような声が聞こえた。




目を開けた先に、レモンイエローの球体は見当たらなかった。
ただ悲しそうな顔で佇むロージーの姿。
目を凝らせば、空に溶けるように小さく見えなくなる風船。






「飛んでいっちまったのか…」



コクリと頷いて彼は笑う。
「うん…でも、仕方ないよね」






何故だろう。
彼が泣くかと思った。


いつものように、涙を落とすのではないかと。




けれど彼は少し眉間を寄せただけで、
もう風船の見えなくなった空を見つめていた。
いつもみたいに泣けばいいのにそうしようとはしないから、
ムヒョはどこか胸苦しさを感じて息を吐いた。







「きっとね、風船は空に行きたかったんだよ」

「…空に?」



「だってあんなに気持ち良さそうに飛んでいったんだもの。」
僕は笑って送ってあげなきゃね、そんなことを言う。
そうして笑うロージーも、今にも消えてしまいそうに儚かったから、
ムヒョは先ほどまで彼が風船を掴んでいたほうの手にふれた。







「ムヒョ?」


「オメェも空に行きてぇのか?」




一瞬だけきょとんと目を見開いて、ロージーはほんの少し笑った。
「うん、行ってみたいな」




















空は青い。
レモンイエローを飲み込んで、尚も青い。




逆光で影にしか見えない鳥が、
空をふたつに分けるように飛んでいった。






「オレは行かせねぇぞ」


「…え?」


「オマエみたいに簡単に手を放したりはしない」





飛んで飛んで見えなくなる風船がお前の影に見えた。
光に吸い込まれて、青に魅入られて消えてしまう、そんな風に見えた。



別に、なんとなくそう思ったのだ。
お前が空に行きたいだとか、飛びたいだとか意味の分からないことを抜かすから。
手を放したらそのまま空に消えていくように見えたから。






「やだな、ムヒョ。僕は風船じゃないよ」
首を傾げるロージーに、ムヒョははぐらかすように肩をすくめた。



「ああ、そうだな」








知っている。
知っている。
けれど、手を放してからでは遅いのだ。
見えなくなってしまってからでは間に合わないのだ。




風船自身さえ知らない内に、風に攫われてしまうかもしれないから。
だからその前に。







「ムヒョ…いつまで僕の手つかんでるの?」


「さァな」



「変なムヒョ」




繋いだ手は、存在を感じさせてくれる。
まだここにいることを教えてくれる。



どこにも飛んでいくな。
空など行く必要はないだろうが。




言葉には出さず呟いて、
掴んだ彼の手をより強く握りしめた。