祈るばかりの、その場所で。













この世界は等しく平等なのだと、誰かが説いていた。
世界には上も下もなく、幸せも不幸せも同じく平等に与えられる。




誰かを愛せば、同じだけの愛を授かることができて、
誰かを慈しめば、同じだけ包み込んでもらえるのだと。
誰かを憎めば、同じだけの憎しみが返ってくるのだと。





因果応報という言葉はそのまま世界に適用されていて、
差し出したものの数だけ、同じく失くした分だけ、与えられるものは大きいのだと。






いつも眠りにつく前、僕はベッドの中で神さまに話をした。

今日もありがとう。
あなたのおかげで僕は今日も幸せでした。
明日も幸せでありますように。
僕と、僕の大切な人たちが幸せでありますようにと。





薄暗い天井の向こうに広がっている群青の夜空を見据えるように、
胸の上で両手を組んで、僕は祈ったのだ。




















死へと旅立った、大切な、大切な人の顔は、見たことのないほどの白さだった。
例えようのない白さの肌と。
伏せられた長い睫毛と。
色をなくした唇と。




母さんの、透き通るようにキレイな肌とか、
よく瞬きをする優しいヘーゼルの瞳とか、
いつも微笑みの形を作っている控えめな薄紅の唇とか。
僕が愛した全てが、そこからは消え失せていた。







まるで。
まるで最初っから。
そんなものなかったかのように。










頬にふれた。
ふれたら、僕の息吹が伝わって、
母さんがいつものように笑ってくれるかもしれない。
お昼寝をしている母さんを起こすときに、
その頬にふれて温もりを感じたときのように。
だから僕はいつもみたいに少し悪戯っぽく笑ってさえいた。




ふれて。
指先がふれて。
手のひらがふれて。
母さんの頬にふれて。




僕は、絶望を知った。





冷たさに、その頬の凍るような冷たさに。
人の体温ではありえないその残酷さに。
ぞっとするほど柔らかさを失った、それに。





なんだ。
なんだこれ。
なんなんだ、これは。








平坦な道だと信じて疑わなかったことを突然覆されたような。
突然泥水の中に叩き込まれたような。
その冷たさしか、この世界には存在しないのだと、突然に理解させられたように。








返して返して返して返して返して返して返して返して。
僕の母さんを返してかえしてかえしてよ。





















僕は外へ飛び出した。
草原と森と青い空と白い雲と。




神さま、これは何かの間違いだ。
間違いだ。そうじゃないの?
誰かを連れて行くというなら、代わりに僕を連れて行って。







両手を胸の前で組み合わせる。
青い草に膝をついて、僕は祈った。
このまま息絶えてしまうんじゃないかと思うくらいに、祈った。
祈り続けた。





何も返ってきはしなかった。
何も帰ってきはしなかった。



ただ強い風ばかりが吹き抜けて、けれどそれは僕が望む何物もくれはしなかった。








ふと目を開ければ、そこはもう暗闇。
僕が祈り続けた群青の空。




よろけるように地面に手をついて、土が爪の間に侵入する。
ひんやりと冷たいそれには、母さんのと違って、生命があった。
冷たさしか感じなくても、生きているという叫びを感じた。







反射的に手を握りしめる。
そうしてふと視界に入ったそれは、いつ落としたのか、魔法律の参考書。
青い表紙のそれは、母さんが魔法律学校に入った記念にと一番最初に買ってくれたものだ。
あれを一冊買うのに、母さんがどれだけの苦労をしたのか。




拾って、土を掃う。
何度も読み返したページは傷んで、よれよれになってしまっていた。
大切に胸に抱えて、僕は俯いたまま立ち上がる。





戻らなきゃ。
ぽつり呟いた言葉は残酷な風に攫われた。


















母さんは何より望んでいた。
僕が執行人になることを。
僕が夢をかなえることを。







走って、走って、走って。
来たときよりももっと必死に走って。





僕は現実を知った。
現実を、この世がいかに残酷で不条理に満ちているかということを。
執行人になったのは、僕じゃない。






六氷透だった。



















あぁ、世界の割れ目が見える。
剥がれ落ちる、ベリベリと嫌な音を立てて。




幸せという臓物を、運命をいう歯車で挽き潰したようなそんな痛みを知った。
絶望だ。






あぁ、神さまは僕に何もくれやしなかった。
誰も僕を見ていてはくれなかった。




世界は平等なんじゃない。
二つっきりだ。







神様に愛された者と、
愛されなかった者。







神さまは僕らを見捨てたのだ。



















深淵に叩き込まれる。

生きているということを見失う。

視界にフィルターが被さる。

体中に虫が這いずるよう。

魂が鉛に包められてしまったみたいに。

呼吸を忘れる。

雑音が鼓膜を乱す。






もう、嫌だ。
苦しいのは嫌だ。







誰でもいい。
何でもいい。
どうでもいい。




この痛みを忘れさせてくれる何かを、
僕が生きることを忘れないように、
この身にどうかどうか与えて欲しい。






それでないなら、どうかこの生命を終わらせて。

















ムヒョが昏い目で僕を見つめた。
厳しい目だ。






僕に死ぬなというの、君は。
この絡みつくような痛みを抱えて生きろと言うの?



君は分かるんだろう?
この絶望を。








狂気に沈んでも、それでも生きろと。
そう言うんだね。





それなら。
それなら、君を憎んでもいい?




君は憎まれることを代価に、僕に生きることを望むんだね。



















僕にとって、大切な君。
大切な大切な友だち。




もう誰にも奪われちゃ嫌だよ。
もうあんな冷たい想いはしたくないよ。







僕は君を憎む。
だからその分だけ僕に憎しみを向けてね。






そうしていつか、君の手で僕の絶望を終わらせて。
僕の見えないところで、冷たくその目を伏せるような消え方はやめて。








だから、僕は、祈るよ、そっと。
眠る前に、濃紺の夜空に向けて。



君が僕を忘れませんように。
誰にもその生命を奪われませんように。
君がまだ僕を憎んでいますように。







そして君が、幸せでありますように。