後悔ばかりを後悔していた。


失わずにいられるならば、
ほんとうは何も失いたくはなかったはずで。


だから、たぶんこの心の許す限りに大切に抱えていたけれど。


それでも落ちていくものを見る度、
諦めばかりがつのっていった。






離れたくば好きにするがいい。


そうしてこの手に何も残らぬならば、
それもいい。




本当に失くしたくなかったものは、
もうこの手に戻ってきはしないのだから。










「ムヒョのバカ・・・っ!」


迫力も何もないが怒鳴ってるらしきその声に、
オレは我に返った。

涙目でぐっとこちらを睨んでくるロージーの視線。
高ぶった感情のためだろうか、
その唇はわなわなと小刻みに震え、色を失っている。



「大声を出すな。うっとおしい」


呟いてそっぽを向くと、視界の隅で、
ロージーの目に新たな涙が浮かぶのが見えた。



―――なんだ、泣き虫め。

コイツの泣き虫は今に始まったわけではない。
もう見慣れてしまったはずなのに、
けれどそれが今は何故かとても勘に触った。


何でコイツはこうすぐ泣くんだ。
男のくせに。



そんなことを考えるあまりに、余計に苛立ちをつのらせながら、
オレはカリ・・・と親指の爪を噛んだ。





「・・・余計なことをしやがって」


そう。
ほんとうに余計なこと。



オレが魔法律使用後の3日の眠りについている間に、
コイツはとんでもなく最悪なことをしてくれた。


四六時中と言っても過言ではないほどコイツとは一緒にいて、
常々タイミングの悪いヤツだとは思っていたが、
今日しでかしてくれたことはその中でも極めつけだと思う。




ろくに理由も説明されず怒鳴られたロージーは混乱するばかりなのだろうが、
今は懇切丁寧に教えてやる気にもなれない。
眠りから覚めたオレがいかに衝撃を受けたかを、
この人一倍鈍いヤツには分からないだろう。



どんなにオレが今、喪失感に打ちのめされているかを。



本当に取り返しのつかないことをしてくれた。


「よ・・・余計なことって何さ!僕はただムヒョに喜んでもらおうと・・・」

言葉は最後まで続かない。
言い終える前に、
オレが凄まじい形相で睨んだからだろう。


「・・・オレが?喜ぶ?」
ハッと忌々しげに笑ってやる。



「オレが、いつ、オマエに喜ばせてほしいなどと言った?」


敢えて単語を区切るように強調すると、
ロージーの目が傷ついたように見開かれた。
声に出さず、その唇が小さく『ひどい』と刻むのが分かる。



「・・・そりゃ、片付けるって言って、
勝手にムヒョの机の引き出しを開けたのは悪かった・・・って思ってるよ。
でもどうしてそこまで言われなきゃ・・・」


また途中で言葉は切れる。
今度はオレが睨んだのではない。
嗚咽で声を詰まらせたのだ。



「引き出しを勝手に開けたのは、まあ辛うじて許せる・・・が、問題はその先だ。
まさか、勝手にオレの物を処分してくれるとはな」


「そ・・・それは・・・!だってもう書けないペンとかだったし・・・」
震えるその言葉を途中で遮る。




「必要か不要かは、オレが決めることだ」
オマエにその権利は無い。



反論する余地など与えず言い放つ。
今のオレはきっと、凍るように冷たい目をしているのだろう。
ロージーがぶるっと体を震わせた。


そうして腕組みをして黙ってしまったオレを見て、
ロージーが迷うように視線を彷徨わせるのが分かる。
コイツの頭の中には、どうすればオレの許しを請えるのか、
今はただそれだけだろう。


「あの・・・ごめん。僕・・・知らなくて・・・」

知らなかった、で済むと思ってるのか。
そう思ったのがそのまま顔に出たのだろう、
ロージーがキュッと唇を噛んだ。




室内に重たく張りつめた空気が流れる。


ロージーは相変わらず俯いたままで。
オレはもうそんな辛気臭い顔を見続けるのにも飽きあきして、
チッと舌打ちした。
椅子の背にかけてあった外套を黙って取り、
肩から羽織る。


「ムヒョ・・・どこに・・・」

追いかけてこようとするロージーを視線で押さえつけて、
オレは踵を返した。





どこへ、だと?

そんなのは知らない。

教えてやったところで、
オマエがオレをどうこうできるわけもねぇだろうに。










『ねぇ、ムヒョ。』


『・・・なんだ?』

記憶の奥深くに封印していた記憶。

思い出すにはあまりに痛ましく、
故に封印した記憶。


しあわせで、
そして優しかった時間。




『このペン、君にあげるよ』

『・・・?なんだ?』

『ムヒョの勉強がうまくいきますようにって、このペンにおまじないをかけたんだ』


差し出されたものを怪訝に思いながらも、
それ以上に、親友からの贈り物に胸を熱くした事を思い出す。




今思えば、それがオレたちの、“親友”らしい最後の会話だったように思う。





――――そして。



その次の日。

寮に悪霊が現れ。

ヨイチを襲い。

オレは『親友からもらったペン』を初めて使うことになる。



「エンチュー・・・」




そうしてその時からゆっくりと、
けれど確実に。


歯車は軋み始めた。










「さみぃ・・・」

いつからだろう。

空からは白い雪が、
綿のような軽やかさで舞い降りてきている。



雪はキライだ。

その白さで全てを覆い、
オレをひとりぼっちにする。


オレという存在だけ、
不自然に浮き上がらせて。


オレの黒さを際立たせる。



まるで。



まるで。

オマエなど受け入れるものかと、
その存在全てで、オレを拒否するのだ。




そうして。

その冷たさで、
オレの中まで凍らせてしまう。











はぁっと吐き出す息が霧となって広がり、
霞むように消えていく。


吹雪くまでとはいかなくとも、
雪は確実に深く、降り積もってきていた。




一歩歩く毎にさくさくと軽い足音を立てながら、
当て所もなく進む。


手袋もしていない指先は朱に染まり、
針で刺すように痛んだ。
外套の前をかきあわせてみるが、
その寒さは変わらない。



ふと道沿いのバス亭に、
小さなベンチが備え付けられているのが目に入った。
少し考えて、簡単に積もった雪を掃い、
ベンチに腰掛けた。


少しカーブのかかった背もたれに寄りかかると、
自然と空を見上げる形になる。





夜なのに不思議と明るい、
真っ白な空。




そこから浮かび上がるように降ってくる粉雪。
その様は、まるで空が少しずつ千切れて、
落ちてきているようにも見える。


このまま降り続けたなら、
いつか空の白色はなくなってしまうのかもしれない。



そんなことを考えてしまうほどに、
それはどこか不思議で、幻想的な眺めだった。




「・・・・・・」


ふいに、怒鳴りつけて
そのまま振り返りもせず置いてきたロージーを思い出す。
まるで裏切られ、傷つけられた仔犬のような目で、
うなだれていたその姿。



雪の冷たさが、後頭部にあった熱い塊をじんわりと、
だが急速に溶かしていく。



「アイツにはちょっとキツい言い方だったか・・・」









ロージーが処分してしまったのは、
遠い日にエンチューが贈ってくれたものだった。




もうペンとして機能しないものの、
いつかまた彼と、笑って話せる時のためにと。
あの日照れくさく言えなかった礼を、言う日のためにと。


僅かな、本当に僅かすぎて泣きたくなるほど、
微かな望みを抱いて持ち続けていたもの。



あの日ペンと共に贈られた、
親友としての彼の言葉が真実だったのだと。



何よりも失いたくなくて、

何よりも大切だった彼と、

再び分かり合える時が来るのだと。




そうただひたすらに信じて、願って、持ち続けていた。









「もう、諦めろということか・・・」



数年前のちょうどこの日に貰ったペン。

霊を裁く身として、執行人として、
いわゆる神の存在を信じることはないが、
奇しくもこの日に捨てられてしまったということは、
やはり意味のあることなのか。



もう諦めてしまえ、と。

信じ続けることなど、無意味なのだと。


そういうことなのだろうか。






今でもこの手は、
あのペンの感触を覚えている。



初めて使ったその日から、
執行人になる為の試験の時も、
ずっと大切に使っていた。


片時も離さずに。


だから、忘れられるわけがないのだ。




ゆっくりと指先で、
何も無い空中に文字を描き出す。


すらすらと流れるように
見えない文字を生み出す指先。




ふと、その手が止まる。

雪がその指に触れては溶けた。
力なく膝に落ちる手。



「何をやってるんだ、オレは。」

そうして自嘲気味に笑った。


「女々しいだのと、ロージーのことを言ってられんな」








『ムヒョはいつでも怖いモンなしって、顔してるよなぁ』

昔、誰かにそんなことを言われた。


あぁ。

怖いものなんてのはない。

真に恐るるは、恐怖する自らの心だからナ。



そう答えたオレは、
自らを知らぬ、何と愚か者だったのだろう。



失うことの恐ろしさを知りえなかった時の自分は、
何てしあわせだったのだろう。





たかが。

たかがペン一本だ。

それがオレの心を、こんなにもかき乱す。








しんしんと、雪が降り積もる。

世界を、ただ一途に、白く染め上げる。





「・・・・・・ねむ・・・」

突然、抗い難い強力な睡魔が体を襲った。
寒さ故だろうか。
頭の芯が痺れるように、ぼぅっと意識が濁るのが分かる。


「・・・やべぇ」

流石にここで寝たら死んでしまう。
死なないにしても凍傷で大変なことになるだろう。



寝るな。

寝るな。


ねるな・・・。





―――――・・・。






意識を完全に眠りに委ねようとしたその刹那、
突然誰かに肩を揺さぶられた。


ギリギリのところで踏みとどまり、我に返る。



「ムヒョ・・・大丈夫?」


寒さで頬を朱に染めながら、
心配そうに覗き込んでくる顔。


寸前まで泣いていたのだろう、
目は赤く腫れあがってしまっている。



「ロージー・・・」


オレの声を聞いてほっとしたのだろうか、
その目からはまた涙が零れ落ちた。
そしてそれは今度はすぐには止まらず、
ポロポロと頬を伝う。
くしゃっと顔を歪めて、手の甲で懸命に瞼をこする。


「よかった・・・。心配したんだよ・・・ムヒョ・・・」


その言葉の大半が嗚咽で、
何を言ってるか分からなかったけれど。


ただオレはまだぼんやりする頭のまま、
手を伸ばして泣き続けるロージーを引き寄せた。



「・・・おい。それくらいで泣くな」



抱きしめた体越しに伝わる、
ひんやりと冷たい感触。


オレの後をすぐ追いかけたのだろう。
コートも何も着ていない。


それでいてオレを見失って、
ずっと探していたということか。



「バカめ・・・」



「ごめ・・・ん・・・なさ・・・」


ひっくひっくとしゃくりあげながら、
ロージーは何度も謝った。



余計なことをしてごめんなさいと。



何度も。


何度も。



もう気にしないでいい、というオレの言葉が
聞こえていないように。






――――何度も。






泣きながらオレにしがみついて、
肩を・・・体全体を震わせて。



体中の水分が全て涙となって、
流れていってしまうんじゃないかと思えるくらいに。







「・・・・・・ちっ」


ベンチの前に屈みこんでオレにしがみついた状態のロージーを、
舌打ちしながら、両手で強引に上を向かせる。



その顔は泣きはらしたどころのレベルではない。

けれど、朱に腫れた顔よりも、
その表情の方が見るに堪えなかった。



「なんて顔してんだ、オメェはよ」




そうしてその唇に、強引に自らのそれを重ねた。
抵抗はない。
ただじっと、されるがままに。



冷たい唇。
オレよりも冷たい。



ゆっくりと舌を挿しいれ、
体温を分けてやるように深く、
それでも優しく舌を絡めてやると、
ロージーから甘い吐息が漏れる。



「―――ふ・・・っ・・・」

泣くと感度が上がると聞いたことがある。

ちょうどいい。
これで少しはコイツの気も紛れるだろ。



そんなことを思いながら、
舌先を丁寧に口内に這わす。


時々苦しそうに眉を顰めながらも、
されるがままのロージーは、ただただ熱い息を吐き出し、
それは白い空気となって霞んだ。




降り続く雪が、上気したロージーの頬で溶ける。





「――――・・・」



オレはゆっくりと顔を上げた。

呆然とした表情のロージーの前髪を
かきあげてその目を見つめる。



「落ち着いたか?」



「・・・・・・ム・・・ヒョ・・・」

徐々に焦点が合っていく瞳を見つめたまま、
また泣き出す前にと、オレは諭すように声をかけた。



「いいか?一度しか言わねぇぞ」



「今日のことはゆるしてやる。オレもどうかしてたからな」



一度しか言わないと前置きしたというのに、
コイツはまた「でも・・・!」と食い下がる。


許してやると言っているのにそうするのは、
自分自身で自らの行為を許せていないからだろう。
だがここでロージーが納得いくまで話し合っていたのでは、
埒があかない。



「でももクソもねぇ。オレの言ってること、分かるな?」


遠まわしに、反論は認めないという趣旨の言葉を放つ。
それでも必死に唇を噛んで何か言いたげなロージーに、
オレは小さくため息をついた。




「――――確かに。」

「確かにあのペンは、オレにとって重要なものだった」


だが・・・と言って、
オレは一度言葉をきって空を見上げた。


高い、高い、遠い空。

この空へは手を伸ばしても
決して届きはしないだろう。




「もういいんだ」



けれど、届かないものに嘆いて
どうすると言うのだ。




失ってしまったペン。


だがそれとともに、
オレは何かを失っただろうか?



失ったのは、
ただの思い出の亡骸に過ぎない。


本当に大切なものは、この心に在る。
捨てようとて、
オレにしか捨てられないものだ。





――――だから。


「もう謝るな」



この手は空へと届かない。

けれど見上げることで、
空と繋がることができる。




あれはコイツが捨ててしまって良かったのかもしれん。

そうでなければ、オレはペンという物質にのみ、
いつまでも固執していたのだろう。








「おい、ロージー」




いい加減体の感覚が麻痺してきた。
外套を脱ぎ、ロージーの肩にかけてやる。


「ムヒョ・・・!」

慌てて外套を返そうとするその手を押し留め、
オレは小さく笑った。



「オレは眠い。それを貸してやるから、オレを事務所まで連れて帰れ」
オマエは無駄に体がでかいんだから、それくらいできるだろ。


それだけ言って、ロージーの返答を待たず、
オレは今度こそ目を閉じた。







最後の意識で、
ロージーの体温を感じる。




暖かく。

雪の冷たさすら忘れさせてくれる、暖かさ。



失くしたくないな。


そう素直に思えたのは、
ほんとうに久し振りかもしれない。



そう思えたことが、
不思議ととても心地いい。




いつだって懸命に、オレと向かい合おうとするその姿が、
心にずっと固まっていた氷を溶かす。


あの日から止まっていたオレの時間。
それが、コイツと過ごすことで
ほんの少しずつ動き出す。


泣き虫のくせに、
コイツはどうしてこうも強いのだろう。




コイツとなら、
どこにだって行けるのかもしれない。




この暖かさのまま。

何も失くさぬまま。









ロージーが雪を蹴って歩く音が、
心地よく鼓膜を叩く。



少しきらせた呼吸。

吐息が霧となって、
オレの顔の横を通り抜ける。





「ロージー」


おぶってもらった背中越しに声をかけながら、
コイツの背中はこんなに広かったんだなと思う。



ふと、言葉に詰まった。

滅多にないことだ、
このオレが言葉を見失うなど。



「どうしたの、ムヒョ?」


怪訝そうな声に、
脊椎の辺りがピリッと痛みを覚える。


無性に、息苦しくなる。

足りない酸素に喘ぐように、
オレは短く息を吐いた。





いとしいと思う。

ただひたすらに、いとしいと思う。



この感情を何と呼ぶかは
どうでもいい。



ただ、いとおしい。





「どこにも行くんじゃねぇゾ」


ポソリと呟く。
聞こえるか、聞こえないかくらいの声で。




「あはは。もちろんだよー。寄り道せず事務所に帰るからね」

そう言って笑うロージー。
そんな意味じゃない・・・と言いかけてやめた。




なんとなく。

ほんとうになんとなくだけれど。


意識などしておらずとも、
コイツは全部分かってるのかもしれない、と。


そんな気がした。



ひとりぼっちだと思って嫌っていた雪の夜も、
コイツがいれば、
もう凍えずに済むのだろうか。




「とっとと歩け」


脚でロージーのわき腹を蹴飛ばしながら、
気づかれないように、オレは小さく笑った。








恐れるものはたくさんある。

後悔していることもたくさんある。


それでも、まだ進む事はできるだろう。




ロージー。



オマエと一緒になら。

















■ロージーにムヒョをおんぶさせたかったとかそんな話です(殴)
ムヒョがあの時使った魔封じの筆はエンチューがあげたものだといい。

それにしても相変わらず勢いばかりでなかなか成長しない文章力orz