A permissible lie












深夜に目を覚ます。
そんなことはほんとうに久し振りだった。







ムヒョと違って睡眠という行為に特に執着してはいないのに、
いつも僕は夜決まった時間に眠ると、朝の決まった時間になるまで
不思議と夢の中に沈むばかりだった。
だから何の前触れもなく開いたこの両目に、少し戸惑う。




薄く開いた瞼の隙間の先には闇が広がっていた。
あぁ、夜ってこんなに暗いものなんだ・・・。
そんな当たり前のことに少しだけ驚いて、ゆっくりとカラダを起こす。


ただ電気が消えているからだけではない闇。
心にまで染みて何もかもが薄れてしまうような。
カーテン越しに、窓から月光が淡く差し込んでいる。
その光に照らすようにしながら、僕は手の平をじっと眺めた。




少し、カラダが重い。
空気が乾いているのだろうか、喉も少し痛んで、僕は数度軽く咳き込んだ。












ゆっくりとベッドから降りる。

そっと歩いているはずなのに床板がキシキシと擦れたような音を立てて、
そんな些細な音でさえ、やたらと耳に障って僕は眉間を寄せた。




やだな、この時間。
全ての時間が止まって、僕だけしかここに存在しないみたいだ。
ふとそんなことを考えて、薄ら寒い思いを味わう。







大丈夫。



隣の部屋ではムヒョはいつものように寝息をたてて寝ているだろうし、
時計はちゃんと秒針を刻み続けていて、
きっと明日もいつもと変わらず世界は動くのだろうから。



だから大丈夫。
心もとない思いを自身で奮い立たせて、僕は部屋の扉を開けた。













キッチンの水道の蛇口を捻る。
細い銀の管を通って、透明な液体が流れ出す。



ムヒョが起きてはいけないと部屋の電気は消したまま、
目は慣れてきたから薄暗がりの中でももう大丈夫だけれど。
コップに、流れる水を注ぐ。
素直に溜まっていく水は、その向こうに見える景色を不可思議に白く揺らめかせながら、
まだぼんやりとしている僕の目を盗んでは、コップから零れ溢れていく。
溢れた水は僅かな光に煌めいて、
ただ静かに流れては僅かな渦を描き、排水溝へと消えていった。



穏やかなその水流。
もうすっかり水の溜まったことを忘れて、僕はただ黙ってそれを凝視していた。












ふと思う。
この透明な水は僕に似ていると。



水は僕らから見て確かに透明で澄んでいてキレイに見えるけれど。
それは嘘で塗り固められているのだ。
汚い、汚れきった水が、人間の手によって浄化されまたもどってくる。
それは湧き水だとか地下水だとか・・・そんなものとはどこまでも違っている、
偽りの純粋さだ。
薬品という嘘で偽られた清浄さ。

水はそんなことを望んでいないかもしれないのに。





それは、エゴだ。
人間の。




あぁけれど。
清浄化されないと必要とされない水。
偽りでも、そう在りたいと思っているのかもしれない。
僕はほんの少し微笑んだ。


だって僕もそうだ。
この透明な水のように、ほんとうのことをひっそりと押し隠して、
ただ必要とされるためだけに偽りを、嘘を吐き続けている。
蛇口を捻れば簡単に零れだす、醜くも清廉な嘘。





けれど。
けれど、それは醜いだろうか。


ただ唯一の存在の意味を証明するためだけに吐き続けるそれは、
果たして罪なのだろうか。














僕とムヒョが共にいる中、厳守せねばならないことが幾つかある。
それらはムヒョの助手として一緒に暮らすようになった時、
彼の口から直接聞かされたもの。



淡々と、僅かにすら表情を動かすことなく、彼はそれを口にした。
それのほとんどは困難なことではなく・・・せいぜい依頼人との再会を禁止するだとか・・・そんなものだった。





けれど、最後に。

最後に告げられたものはあまりに重く。
それを言葉にした時のムヒョの顔は、
今まで見たこともないくらいに感情というものがなく。
背筋に嫌な汗が伝うような想いをしたことを、今でもよく覚えている






『   オレを、愛するな   』




どういう意味だろうと思った。
言葉は単純明快なものだったけれど、
その言葉に込められたものはもっと深いような気がして、僕は息を呑んだ。










ムヒョはいつでも、怜悧な刃物のように笑っていた。



まるで全てを食ってやると言わんばかりの攻撃的な表情と声。
常に彼は何かと闘っていた。


それが何かは分からない。
けれど、どんな時も、何をしていても、例えそれが食事の時でも。
彼の目はすぐ前に広がる光景ではなく、
僕には見えないどこか遠くを見つめていた。




そんな彼に僕が心奪われてしまうのに、そう時間はかからなかった。














コップの縁から滴り落ちる水滴にパジャマの袖を濡らしながら、
僕は一気にそれを飲み干した。
唇を湿らせ、生ぬるく喉を通り体内に落ちていく水。





僕の中に、また嘘が溜まっていく。



勢いよく呷ったせいで水が器官に進入したのか、
僕はむせるように何度か咳を繰り返した。

逆流した水が喉を、鼻を痛ませ、目じりに涙が浮かぶ。
僕はコップに少量残った水を揺らしながらじっと見つめた。
透明に、時々白銀に輝くその液体。
何度か鼻をすすって、それから僕は、
水を流しに叩きつけるように引っくり返した。














ほんの少しなんだ。


ほんの少し、近づけたら。




何か変わるのかもしれない。


狭く、けれど底の見えない深さの溝が、僕と彼の前に横たわっている。
飛び越えるのは容易かもしれない。
けれど落ちてしまえば、もう二度と上がってこれないのだろう。





ほんの少し、もう少し。


それでもそんな僅かな隔たりを飛び越える勇気すら持たない僕は、
水道の蛇口を捻るように、また清廉で穢れた嘘をつく。










ただ一言。
精一杯の“愛してる”を込めて



「ムヒョなんて、大嫌い。」





ただ、それだけ。