緋翠。










とめどなく溢れるそれは何の為に流れるのか。
誰のために流れたのか。




透明に、紅に流れていくそれは、
混じりあい滲むように流れ消える。
















「ムヒョ、来て来て、またあの子来てるよー!」
呼ばれる声にオレは顔を上げた。

かがんだロージーの柔らかな髪が、事務所の扉の辺りで揺れる。
扉を開け放ったために、室内に涼やかな風がそっと駆け抜けて、
オレは慌てて飛びそうになる書類を手で押えた。




「またあのネコか?」
扉を閉めるように手で示しながら、
書類をまとめて元の場所に戻す。



数日前から、事務所に小さなネコが遊びにくる。
いつかれては困ると言うオレの言葉を無視して、
ロージーが夕飯の残りなどを与えてしまったからだろうか。
毎日夕方の決まった時間に、そのネコは扉を爪で引っかいて、
飯をねだった。




「ね、見てムヒョ。この子こんなにおっきくなったよ」
再度呼ばれて、オレはしぶしぶ重い腰を上げた。



オレはこのネコがそんなに好きじゃない。
2度目に来たとき、コイツにロージーが大変な名前をつけてしまったからだ。


「なんだ、ほんとうに大きくなったな」
「そうでしょ?ムヒョったら食いしん坊だからなー」
オレは深い溜息を吐いた。



「おい、その名前なんとかしろ」
「え、どうして?」


なかなか理解しないロージーの頬を乱暴に引っ張って、
オレはゆっくりと説明してやる。
「なんでコイツの名前がオレと同じなんだよ」



なんだそんなこと、ときょとんとしたロージーの姿に
半ば諦めの気持ちが生まれる。
「だって、この子ムヒョに似てるんだもの」
そう言ってロージーはそのふわりとした毛玉を抱き上げると、
小さな頭に頬を寄せた。




オレはまじまじと“ムヒョ”の顔を見つめる。
緑柱石の眼差しには知性が感じられ、顔も下品な方ではない。
けれどやはり自身の名がネコと一緒というのは、
どうにも複雑な気分だった。


「ふふ。柔らかくてキモチいいなー」
一人上機嫌なロージーに、ネコはゴロゴロと喉を鳴らした。


コイツ自身もエサは抜きにしても、ロージーをいたく気に入っている。
そしてオレを嫌っている。
一度ロージーから引っぺがして強引に顔を覗きこんだときには、
腕を引っかかれもした。
よっぽど地獄送りにでもしてやりたかったが、
ロージーが泣きながら謝るものでそれもできず。



「おい、あんま調子乗んじゃねーぞ」
鼻をつまもうとすると、指を噛まれそうになった。















「僕ちょっとお買い物行ってくるね」
財布を手に出かけようとするその時間はもう遅く、
薄紫の空は濃紺をすぎ、闇がベールを広げ空を包んでいた。
その暗さにオレは眉間を寄せる。


「おい、今からか?」
「うん。ちょっと必要な物だから」



流石にこの時間一人で外出させるのは些か不安に思い、
オレも行く、と外套を羽織ろうとすると、
「あ、大丈夫。ムヒョが一緒に行ってくれるみたい」
そう言うロージーの足元には例のネコが我が物顔で座っていた。
外套片手に立ち尽くすオレを得意げに見つめて、
そいつは一声鳴いた。



「すっかりオマエに懐いちまってるんだな」
ネコの前でしゃがみこむ。
碧の瞳は光に瞳孔の形を目まぐるしく変化させながら、
オレの目を見つめ返してくる。


「おい、オマエ。コイツについてくってんなら、ちゃんと守れよ?」
言い聞かせるように話しかけると、
当然だと言わんばかりに鼻を鳴らしそっぽを向く。



「てめ・・・ほんといい根性してやがる・・・」

険悪なムードを感じ取ったのか、
ロージーが慌てて間に飛び込んだ。
「もうッ・・・!二人ともどうしてそんなに仲悪いのさ!」
「全面的にコイツが悪い」
指差して言うと、噛まれそうになる。
「もう、ムヒョも噛んじゃダメでしょ・・・ッ」


このままここにいてはいけないと感じ取ったのだろうか、
ロージーはネコを抱えると「行ってきます」と言葉だけを残して
外に飛び出していった。














「遅い」
オレはイライラと窓の外を見下ろした。
空には半分の月。
こんな夜はろくでもないことが起きたりする。



何度目かの舌打ちをすると、
何やら玄関の方でカリカリと微かな音が聞こえて、オレは顔を上げた。




開けるとネコの姿。
傍にロージーの姿はない。


「ロージーはどうした?」
ネコは鋭い声で高く鳴くと、
ついてこいと言うように翡翠に輝く瞳でオレを見つめた。














「バカか、テメェは」
思わず漏れた一言に、ロージーはしゅんと俯いて
「ごめんなさい」とうな垂れる。



ネコに案内されて来た先では、
ロージーが地べたにぺたりと座り込んでいた。

人のほとんど通らない道、
いったい何があったのかと最悪の事態も想定したのに、
返ってきた答えは「転んで足ひねっちゃった」の一言。




「いったい何がどうしてオマエみたいな年齢にもなって、
こんな何もない場所で転んだりするんだ?」
皮肉と言うよりは純粋な疑問だったのだが、
ロージーはしょぼんと肩を落とした。


「ほら、痛いところ見せてみろ」
恐る恐る足を出すロージー。
見ると派手に腫れている。

「どんな転び方したんだ、ホント・・・」
「うぅ・・・痛いよ、ムヒョ」
少しふれただけでカラダを震わせるロージーに、
歩かせるのは困難だと判断して、
あまり刺激を与えないようにしながら抱き上げる。


俗に言うお姫さま抱っこという形になって、
ロージーが慌てたように暴れた。

「わっわっ・・・はずかしいよ・・・!」
「あー、うるせぇ。歩けねぇくせに文句たれんな」


尚も暴れるロージーの抗議を完全スルーしながら歩き始めると、
足元で視線を感じた。
暗闇で煌めくふたつの翡翠。
オレはニヤリと笑った。

「悪ぃな、助かった」
そう言うとネコは満足そうに一声鳴いて、
暗がりへと消えていった。














ネコはそれからも毎日のように事務所に来た。
飯時だけではなく、どうして分かるのかロージーの買い物の時刻にまで。


すっかりボディーガード気分だな、と言ってやると、
同志を見るような瞳で見返され、思わず笑った。














ある日ロージーはいつものようにネコ用の飯を用意して、
玄関の前で待っていた。



けれどいつもの時刻にネコは姿を現さない。
ロージーの買い物時間にも姿を見せず、
「誰かに拾われたんじゃねぇか」と言うオレの言葉に、
彼はひっそりと俯いて溜息をついた。

そうしてそんなことが何日か続き、
けれどロージーはネコを諦め切れてはいないようだった。



ネコは死期が近づくと姿を消すと言うが、
あのネコはまだ小さくそんな年齢には思えなかった。
それでもそんなことはロージーに言えず、
毎日のように食べ物を用意しては玄関で待つロージーの姿を黙って見つめていた。















「おい、ジャビンどうした?」
今日もネコのエサを片手に溜息をつくロージーに声をかける。


「あ・・・ごめんね、忘れてた」
そんなことだろうと思ったがな、内心ぼやいて立ち上がる。
「おい、財布貸せ。買ってくる」
「え?ムヒョが?」
「オマエはネコが気になるんだろ?ここにいとけ」


差し出された財布を受け取り、黙ってロージーの頭を撫でる。
ふわりと柔らかいその感触は、いなくなったあのネコによく似ていた。














買い物に出るのなんて久し振りだな。
そう思いながら、人並みを足早に通り過ぎる。




空は青く、まぶしかった。
初夏の太陽がタイル状の白い地面に反射し、
知らず目を眇める。
吸い込む空気にガソリンとアスファルトの灼ける匂いを感じて、
その気管につまるような感覚に眉間を寄せる。





ふと前方を歩くそれなりに多い人の群れが、
キレイに割れて道に隙間ができた。



「・・・なんだ?」


白い地面の上に黒い塊。
嫌な予感に近づいて見下ろすと、
それはロージーが“ムヒョ”と呼んで可愛がったネコの変わり果てた姿だった。

車に撥ね飛ばされたのだろうか、横たわるその下は赤黒く染まっている。
しゃがみこんでその顔を覗きこむと、翡翠は白濁し光を失ってしまっていた。


「おい」
動きはない。


「ほんとに死んじまったのか?」
ネコの死体に話しかけるオレの姿に、
周囲を歩く人間がチラリと不躾な視線を投げかけてくる。
オレはそんなものは意に介せず、
空っぽになったネコの体を持ち上げた。

すでにゼリー状になった濃厚な血の塊が、
どろりと指先を伝って流れ落ちる。
「バカが、何で死んだ」
応える声はない。
あの生意気そうな表情はもうどこにもない。



「バカが」
呟くオレの指から、
夏の日差しで腐ったのか内臓の塊のようなものが崩れるようにぼたりと落ちて、
近くを通った誰かがヒッと息を呑むのが分かった。
コイツを我が子のように可愛がっていたロージーの笑顔を思い出す。




「・・・アイツが悲しむだろうが」










ロージーには何も言わなかった。
知らなければその方がいいと思った。















「ムヒョ、あの子が来てる」



ある日買い物に行こうと扉を開けたロージーが
ビックリしたように呟いた。


「あの子?」
「あの・・・黒猫のムヒョ」


オレは手にしていた雑誌を放って、ロージーの足元を覗き込む。
そこにはいつかの姿そのままに、
オレを生意気に見上げる翡翠の眼差しのネコがいた。



「オマエ・・・」
呆然とするオレに気づかぬように、
ロージーはその小さな姿を抱きしめる。
「心配したんだよ、ムヒョ・・・!」
嬉しさで涙ぐむロージーに、ネコは小さく鳴いた。






ネコは以前のようにロージー手製の飯を食べて、
二人転げるようにじゃれあったりして、
久し振りの再会を楽しんでいた。
オレはただ黙って、その光景を見つめていた。






帰り際、ネコは扉の前でじっと碧の目を向けてきた。
小さく鳴く。
オレは手を伸ばして、その小さな頭を撫でてやった。
噛もうとはしなかった。


「またな」
呟くと、頷くように首を動かし、細く空いた扉から消えていった。















振り返ると同時に、ロージーが飛びついてくる。


「ロージー?」
「ムヒョ・・・ムヒョ・・・」

口にした名前は誰を呼んでいるのか。
肩を震わせて、ロージーは大粒の涙を幾粒も落とした。



「オマエ、知ってたのか・・・?」
アイツが死んだことを。

細すぎるロージーの肩に腕を回して、強く抱きしめる。
「好きなだけ、泣け。オレはここにいるから」
ロージーは何度も頷いて、いつまでも泣きじゃくった。















外は夕暮れ。
薄紅の陽が事務所内を緋色に染める。




泣き疲れてぐったりとしたロージーのカラダを抱きかかえて、
ベッドへと横たえた。

額に張り付いた前髪をそっとかきあげてやると、
ロージーの腫れた瞼が目に入る。
黙ってそっと口付けて、オレは静かに振り返った。




「いつまでそこにいる気だ?」


そこには出て行ったはずのネコの姿。
翡翠の目は変わらずオレを捉えて離さない。




「行けよ。地縛霊にでもなってみろ、ただじゃおかねぇぞ」


それでも動こうとしない。
オレは握っていたロージーの手をそっと放して、
ネコへと歩み寄った。




「なんだ、何が言いたい?」


低い声で、ネコは一声鳴いた。
しばらくその深い翡翠を覗き込むようにして、
オレはニヤリと笑った。




「安心しろ。コイツはオレが守るさ」



ネコはしばしムヒョを凝視して、それからゆっくりと踵を返すと、
暗闇に沈んでいく部屋の外へと消えて行った。














静かな寝息。


さっきまでの感情の迸りが嘘のように。
白く血の気のないロージーの手を起こさぬように手で包んで、
頬に残った涙の跡を指で拭ってやる。




「ロージー」
聞こえてはいない。
けれど、伝えるべくオレはゆっくりと言葉を刻んだ。





「ありがとう、だとよ」





聞こえてはいないはずなのに、
その顔に微笑みが浮かんだような気がして、
オレはもう一度強くその手を握りしめた。















流れるもの、流されるもの。


揺らぐオマエがそれにくずおれぬよう、
いつまでも傍にいよう。





混じりあい溶けていく痛みに、
少なくともそれ以上かなしむことのないように。


















■ネコと真剣に張り合うムヒョが書きたかったとかそんな話・・・です・・・(震)
脳内に妄想列車が駆け抜けるわたしは、その内魔列車の刑に処されるのかもしれません・・・(倒)

ちなみに緋翠は造語です捏造です。