夕暮れ。

夕暮れ。


朱に染まる坂道。

あかく、あかく。

まるでそう。

世界が血に染まったように。



ただ。

あかくあかく。


朱に染まる坂道。

朱に続く坂道。


太陽がみえなくなる。

太陽がしんでしまう。


あかく、
あかく、
夕暮れ。



だからぼくも、紅に染まる。









「おい、いつまでもそんなとこで何してる」



その声に、僕は我に返った。
どうやらまた僕は、事務所の前でぼぅっとしてしまっていたようだ。
『また』というのは、こうやって外でぼんやりして
彼に咎められたことが今までにもあるからだ。



―――何故だろう。
この時間、この空気は、僕の心をただただ強く惹きつける。


名残惜しげにもう一度朱の先を見て、
それから振り返った。



「ごめんごめん、ムヒョ。
夕日すごくキレイだったから見とれちゃって・・・」



そう言った僕の言葉に腹が立ったのか、
彼の今にも歯軋りでも始めそうな不機嫌な表情に
より拍車がかかる。



「ロージー・・・。毎回オマエはそう言ってるぞ・・・」

「え・・・っ。そ、そうだっけ」
あははーと笑ってみるが、
彼の不機嫌な表情は一向に変わらない。



不機嫌な声。
不機嫌な表情。


それでも僕には、
彼が本当に怒ってるわけではないのが分かる。




いつもならムヒョはそのまま踵を返して
建物の中に戻っていってしまうというのに、
けれど今日はそうしようとはせず、
ただ黙って僕をじっと眺めていた。



「ムヒョ?」

「―――夕暮れが好きか?」


ボソッと呟くその言葉の意味をつかみかねて、
僕は一瞬首を傾げた。
ムヒョはまた黙って、こちらを見つめている。
彼の吸い込まれそうに昏い目が、
夕日を映して今は紅に染まっていた。



「・・・どうして?」


僕の問いに、眉間に皺を寄せた以外に表情を動かさずムヒョは
「夕暮れはやめておけ」
と短く言って目を伏せた。



「―――え?」
それだけじゃよく分からない。


そんな顔をした僕に、
ムヒョは「そんなことも分からんのか」とでも言いたげに
イラッとした視線を向けてくる。




「・・・夜明けと・・・夕暮れは“魔”の刻だ」

「魅せられるな」
その言葉に潜む警告の響き。



「“魔”の・・・とき?」
でも僕はただ反復することしかできない。
こんな時、ムヒョの言葉を瞬時に理解できない自分が嫌になる。



「・・・そうだ」
「夜明けには様々なものがうまれ、
そして夕暮れは陽が死す時間。
刹那的なものだが、それだけにあまりいい刻じゃない」


「魅せられるな」

もう一度、今度はしっかりと僕の目を見て呟く。





唐突に強い風が吹いて、
ムヒョのマントが大きく風になびいた。


もう日は完全に落ちている。

夜の淡い最初のヒカリに蒼く染められながら、
彼は舞う粉塵から顔を背け、煩わしそうに目を細めた。

闇に溶けるその姿。





―――ちがう。




「分かったんならさっさと戻るぞ」

そう言って戻ろうとしたムヒョの腕を
反射的につかんでしまう。



「・・・何だ。まだ何かあるのか」
体全体からイライラオーラを噴出しながら、
振りまきざまに鋭い視線を投げてくる。



「ムヒョ・・・ちがうよ・・・!」


「・・・何がだ」

「夕暮れじゃない。・・・僕が好きなのは」


オロオロする僕を黙って見つめ、
「どういうことだ」とその先を促した。


「え・・・っと・・・」





―――ときどき僕は、
こうやって自分の言葉を見失う。




僕は気弱で、
ムヒョみたいに一人でいろいろできる強さもないから。


自らの言葉にさえも恐れを感じてしまうから。

自分の中にある想いも、
言葉も見失って。



そうして彼に近づけない自分が、
とてもかなしくなる。






「おい」

俯いてしまった僕の顔を覗き込んで、
ムヒョが言った。



「あせるな。少しだけなら待ってやる。」





その言葉に安堵して、僕は微笑った。


表情には出さない。
声の調子も変わらない。


でも―――いつだってムヒョは、
僕のことを一番に分かってくれる。




「夕暮れじゃなくて・・・そのあとの夜が好きなんだ」

「夕日がキレイな時は、月もキレイだから・・・」

「ムヒョもそう思うでしょ?」


ムヒョの言葉が嬉しくて、
今度は逆に勢いよくまくし立ててしまう。



「ロージー。落ち着いて話せ・・・」
呆れたように僕を見つめるムヒョ。
でも僕の言葉はとまらない。



「それにね」


「それに、夜はムヒョの時間って感じがするから・・・!」
「夜は闇が広がって・・・ムヒョの世界って感じがする」
「他のどんな色にも邪魔されない、絶対の色」
だから好きなんだ。




―――すごく、憧れちゃうよ。


そこまで言って一息ついた僕を
彼は怪訝そうに見る。



「オマエは―――」

「ん?なに、ムヒョ」


「オマエはオレを目指しているのか?」


「え・・・?う、うん」


ムヒョの目がゆっくりと眇められる。
口元に皮肉げな笑みが浮かんだ。


「やめておけ」


「―――ど、どうして?」

どうしてそんな会話の流れになったのかが分からず、
僕はまたオロオロと声を震わせてしまう。


そんな僕を一瞥して、彼は背中を向けた。


「―――どうしてもだ」


何でだろう。
そう言われるのが、
突き放されたみたいで悲しかった。


そうして、思わずムヒョの
漆黒のマントの先をつかんで握りしめた。



「ムヒョは、ぼくがムヒョみたいになったら嫌なの?」
マントをつかむ指先が震えた。



「・・・手を離せ」


ムヒョの声は相変わらず冷たい。
聞きなれていても、
その声は時々背筋に冷たいものを走らせる。
でも僕は手を離さなかった。



「理由を言ってよ」


チッと舌打ちして、
しばらくの間のあと、ムヒョはようやく口を開いた。
短く、たった一言。



「オマエに夜の闇は似合わんだろ」と。



ムヒョの言うことのほとんどは難しすぎて、
いつも僕を惑わせる。


とても、本心を隠すのに長けているから。


でもその時そう言った彼の顔は、
見た事がないくらい寂しそうだった。




「―――それでも・・・!」


強く、強く、マントをつかむ手を握りしめた。





「それでも僕は、ムヒョみたいに強くなりたいよ・・・」




そう言って、ゆっくりと手を離した。
自由になったマントは再び風に吹かれてなびく。
ただ静かに。
ただ一途に風を集めて。






「―――そうか」

振り向いたムヒョの顔のその姿を、
ガラス細工のような繊細さで月明かりが照らし出す。


限りなく漆黒に近い蒼。
彼だけの蒼で。




「ま、オマエがオレに近づこうなんて100年早いがナ」
そう言って不敵に笑う。
覚悟はあるのか、とその笑みは言っているような気がした。



「―――何て言われたって、僕はムヒョについていく」


「だって、ムヒョ以外に僕が目指す相手なんて・・・ありえないよ―――」




「そうか」


「それならオレはもう何も言わん」



「―――だがロージー、同じ闇色を目指したところで、
オマエはせいぜい“お月様”止まりだと思うが」
そう言って、クク・・・と喉を鳴らす。


「お・・・お月様?バカにしてるでしょ。ひどいよ、ムヒョー!」

「何だ。さっきまで月がキレイだのなんだのと言ってたくせに」


皮肉っぽく言いながらその顔が、
不思議と嬉しそうに見えたのは僕の気のせいだろうか。









そのまま建物へ消えていく後姿を見つめて、
僕は自分の手を見つめた。



僕はほんの少しでも彼に近づけるだろうか。


ほんの少しでも長い間、彼の傍にいられるだろうか。


夜空でずっと輝き続ける、
夜の月でいられるだろうか。



「・・・がんばろっ」

小さく何度も呟いて、僕は笑った。










事務所の窓枠に頬杖をついて、
ムヒョは空を眺めていた。




月が闇を照らす。

黒が支配する世界を淡く、蒼く染める。


「オマエがオレの月になるのか―――」


そう独り言のように呟いて、
彼は小さく、そして心底嬉しそうに笑った。
















※ちょっとだけムヒョロジ。
ムヒョロジ初小説です。
それにしてもロージーたんて何て可愛いんだろう・・・!